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ラバウル航空隊の主軸!二〇四空かく戦えり

2014年08月04日 公開

歴史街道編集部

ラバウル航空隊の主力に

ガ島の戦況が、日本軍がやや押していた10月24日、陸軍が敵飛行場を占領したと情報が入る。六空は早速ガ島に進出することになり、零戦が飛行場に着陸しようとしたところ、対空砲火で歓迎され、占領が誤報と気付く一幕があった。

この強行着陸を試みたのは、おそらく小福田飛行隊長だろうと隊員たちは噂した。剛毅な隊長ならやりかねないからだ。そんな闘志溢れる小福田も人気があったが、部下思いの宮野分隊長を慕う隊員も多かった。

士官・下士官の分け隔てなく気さくに接し、しかも技倆抜群、危険な任務では常に先頭に立つ指揮官であったという。

11月1日の改編で、六空は二〇四空(第二〇四海軍航空隊)と改称され、部隊建て直しのために内地に帰還する台南空(二五一空に改称)に代わって、ラバウル航空隊の主力を担うことになる。

ブイン基地の二〇四空は連日、ガ島進攻、ガ島増援船団の直衛、ブイン周辺の防空任務などにあたった。敵戦闘機との空戦では、零戦隊はなお性能面でも技倆でも優っていたものの、この頃になるとその差は縮まりつつあった。

小福田はこう語っている。「敵がわれと同等かそれ以下ならばわが方有利、わが方が2分の1ならば互角の勝負、1/3ならば相当の苦戦、それ以下ならば惨憺たる敗北」。

12月1日、宮野分隊長の指揮で、二〇四空全員が「空の要塞」B17の撃墜戦法を訓練していたところ、本物のB17がブイン上空に現われた。訓練中に発見した杉田庄一飛行兵長(飛長)は、神田佐治飛長とともに追い、それぞれ機銃弾を撃ち込むが、杉田機は誤って敵の翼端に接触、翼が壊れたB17は墜落した。

報告の際、日頃戒められている空中接触について叱責を覚悟する杉田に小福田は「大敵をよく落とした」と誉め、一升瓶を贈った。杉田の笑顔に搭乗員たちは大いに沸いたという。

12月1日付で少佐に昇格した小福田だが、なおも先頭に立っての出撃を続けた。12月31日に大本営はガ島撤退を決めるが、最前線では戦いの激しさが増す一方である。

年が明け、昭和18年(1943)1月五日には、宮野が指揮して敵艦隊を攻撃した12機の艦爆を巧みに掩護しつつ、18機の零戦でF4F6機を撃墜、うち3機は大原亮治飛長の殊勲であった。

 

無念の長官機、そして宮野の最期

ガ島撤退に伴い、二〇四空は2月末、ブインを去り、ラバウルに戻ることになる。直後の3月6日、小福田飛行隊長は内地の航空参謀に転出、以後、二〇四空は宮野大尉が飛行隊長として指揮を執ることになった。

しかし3月半ば頃から、ラバウルヘの空襲が激しさを増していく。二〇四空は二五三空とともに戦い、時に快勝を収めたが、ソロモンとニューギニアの二方面作戦を余儀なくされ、苦戦が続いた。

精鋭の航空戦力をラバウルに集中して一大航空撃滅戦を行なう「い号作戦」実施が決定したのは、そうした状況下でのことである。ラバウルに将旗を掲げた山本五十六連合艦隊司令長官は、四隻の空母の艦上機を陸上基地にあげ、在来のラバウル諸隊と合わせた350機の大兵力で、ソロモン及びニューギこア方面の攻撃を下命した。

宮野隊長以下の二〇四空も他隊と協力しつつ、4月7日のガ島沖、12日のモレズビー、14日のミルン湾攻撃に参加。二〇四空だけで不確実機5機を含む20機を撃墜している。

「い号作戦」は一応所定の戦果を上げたとして終了。4月18日、山本長官一行は陸攻2機に分乗して、ブイン基地を巡視することになった。その直衛を任じられたのが、二〇四空である。

司令の杉本丑衛大佐は20機の護衛を進言するが、山本長官は「6機でよい」と進言を退けた。これが仇となる。海軍の暗号を解読していた米軍は、ガ島から18機のP38を送り、待ち伏せさせた。

結果、直衛機の奮闘もむなしく2機の陸攻は撃墜され、山本長官は戦死する。山本長官戦死が戦局に与えた影響は大きかったが、二〇四空にとっても悪夢のような出来事であり、ラバウル航空隊の士気低下は免れなかった。

そんな最中の5月10日、ラバウルにかつての台南空こと二五一空が内地より再進出する。エースの西澤廣義の姿もそこにあった。

6月16日。二〇四空24機は二五一空とともに、艦爆隊を掩護してルンガ沖の艦船攻撃に参加。敵の強力な反撃に遭って、味方の被害は大きかった。

集合地点に戻る部下の姿が少ないため、案じた宮野隊長は、再び戦闘空域に引き返し、そのまま還らなかった。やせ細った顔を二コニコさせ、常に二〇四空の先頭にあった宮野大尉のそれが最期であった。

しかし戦いはなおも続く。連合軍がニュージョージア島ムンダに上陸すると、二〇四空は8月中旬、ブインに再進出して連日健闘。消耗が激しく、10月上旬にラバウルに戻るが、翌昭和19年(1944)1月まで基地航空隊の中心となって、奮戦を続けるのであった。

第二〇四海軍航空隊。彼らこそは、ラバウル航空隊を象徴する勇戦敢闘を果たした部隊として記憶されるべきであろう。

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