第55回PHP賞受賞作

昭和の足音が遠ざかり、平成も終わろうとしているなかで、終戦前後の惨めな日々を語る人も少なくなった。

私が奥伊豆の里で7歳のときに終戦を迎えた日、担任の若い女性教師が「あなたたちは敗戦国の子供になってしまって可哀想」と声を詰まらせた。「ハイセンコク」の意味はよくは分からなかったが、先生の涙声は抑揚までが記憶に残っている。その村は大方が農家で、ほとんどが自給自足に近い貧しい生活であったが、子供たちはすこぶる元気であった。

夏休みのある日、いつものように十数人の仲間と川遊びに興じていると、誰かが大声で叫んだ。「あれは何だ!」。

中洲の夏草が不自然に揺れ、なにやら奇妙な物体が蠢いていたのである。子供たちの目がその物体に集中すると、繁みの間から顔を現したのは、大きな荷物を背負い頭髪も髭も伸び放題の熊を思わす男であった。

その男は中腰のままであるため、飛びかかってくるのではないかと私たちは逃げ腰になったのだが、男は思いもよらない優しい声で「こんにちは」と言って、雑草を分けながら全身を現した。その姿に誰もが声を失ったのは、男の膝の先が両脚とも失せていたからだ。

年齢は30歳前後であろうか、布で覆った俵のように見えた物は、背中いっぱいの荷物であった。両方の膝頭に分厚いゴムを当て、手製らしい短い松葉杖にすがって芋虫のように這う姿に、私たちは息を飲んで見つめるばかりであった。

戦友と脚を失ったけれど

「汗を流したいので、水遊びの仲間に入れておくれ」

そう言って背負っていた荷物を仰向けになって降ろす姿に、子供たちの恐怖心は好奇心に変わり、いつしか男を取り囲んでいた。

口火を切ったのは腕白で知られる6年生の栄一であった。

「おっちゃん、その脚、どうしたずらか」

男は日焼けをした額の汗を拭いながら、髭に覆われた頬を緩るめて言った。

「どこへ行ってもそればかり訊かれるよ」

「なあ、おっちゃん、そんな脚でどこから来てどこへ行くずらか」。急き立てるように聞く栄一に、男は膝頭をさすりながら言った。

「そう、こんな脚だけれど……生きているんだ。訳はゆっくり話すから先に汗を流させておくれ」

小さな松葉杖にすがり、じれったいような速度で水辺に向かう彼の姿を、私たちは数珠繋ぎになって追った。汗を流し終わると彼は橋の下の日陰へ子供たちを誘い、誰もが知りたがっている「脚」について話し始めた。

「南方の戦地で敵の砲弾を浴びて戦友の大方は死んでしまった。だが、わたしは脚をやられただけで、こうして生きている……」

子供たちは神妙な顔で彼の話を聞いていたが、また訊ねたのは栄一であった。

「おっちゃん、脚、やられたときはどっだけ痛かったずらか。泣いたずら?」

「泣いた、泣いた。オカアサーン、痛いよー、助けてーって大泣きしたよ、栄一君」

「エーッ、どうしておらの名前を知ってるずらか」。目を丸くする栄一に、彼は事もなげに言った。「ほら、ここに書いてあるよ」。

当時は着衣に布製の名札を付ける慣わしになっていたことから、栄一の破れかけた半ズボンにも墨文字で名前が記されていたのだ。

その日から男は、一週間ほど子供たちの遊び場である橋の下に滞在をしたのだが、栄一をはじめ他の子供の名前もすぐに憶え、親しみを込こ めて「○○君」「△△ちゃん」と呼んでくれたので、私たちは自宅から蒸かし芋やトウモロコシ、トマトなどを彼の元へ運ぶのが楽しみになっていた。

読書のきっかけをくれた

彼は背負っていた荷物の中から数冊の本を取り出し、感情をこめて読んでくれた。

その中で一番印象深かったのが芥川龍之介の「蜘蛛の糸」であった。

地獄に落ちた悪人のカンダタが、一度だけ蜘蛛を踏み殺さなかったことから、お釈迦様が血の池から彼を救うために蜘蛛の糸を垂らす。その糸に他の罪人がすがっているのを見たカンダタが、「これはオレの糸だ。降りろ!」と叫ぶと、糸がプツンと切れてしまう……。

貧しい寒村で暮らす私は、読書の習慣などは皆無に等しかったが、両脚を失ったあの人が感情をこめて読んでくれた「蜘蛛の糸」は強烈に心に残り、読書への意識を目覚めさせてくれたのである。

あの人は戦争について多くは語らなかったが、戦地で散った戦友の里を訪ねる旅であったのではないだろうか。ほんの数日間の出会いながら、小さな松葉杖にすがって微笑む姿は、私が挫折に直面する度に自身を見つめ直す糧となり、今も心から離れることはない。
 

多賀多津子(福岡市・主婦・80歳)