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中国の台頭と日・ベルギー関係の展望



2012年04月09日 公開

片山和之 (在ベルギー日本国大使館公使)

在ベルギー日本国大使館公使 片山和之氏より、当社に「第一次大戦から100年 中国の台頭と日・ベルギー関係の展望」と題する論考が寄せられました。

 「第一次大戦から100年 中国の台頭と日・ベルギー関係の展望」
 ◇ベルギーの一般的なイメージ
 ◇ベルギーの歴史的な位置づけ
 ◇近代史における日・ベルギー関係
 ◇近づく第一次世界大戦100 周年
 ◇中国と第一次大戦
 ◇現在の日・ベルギー関係と中・ベルギー関係
 ◇今後の展望

全文は、政策シンクタンクPHP総研のホームページのPolicy Review欄でお読みいただけます。

ここでは、ヨーロッパにおける中国の台頭と日・ベルギー関係を論じた部分 (◇中国と第一次大戦 ◇中国と第一次大戦) をご紹介します。日・ベルギー関係の過去、現在、未来(展望)については、上記でご覧ください。

 

近づく第一次世界大戦100 周年

 第一次大戦は、周知の通り、1914(大正3)年の6月28 日にオーストリア= ハンガリー二重帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1 世の後継者フェルディナンド皇太子が、ボスニアの首都サラエボでセルビア人民族主義者によって暗殺されたことを直接の契機に、複雑な関係にあった欧州諸国が二分して7 月末に戦端が切られたものである。短期戦で片付くとの楽観的な見通しも大きくはずれ、以来4 年有余にわたり壮絶な戦闘が繰り広げられた。1918(大正7)年11 月11 日にドイツが連合国と休戦協定を結び、翌年6 月28 日にヴェルサイユ条約が調印されてやっと終結した人類がかつて経験したことのない未曾有の総力戦であった。毒ガスや戦車、戦闘機といった新しい兵器が登場し、非戦闘員を含めた戦死者が

2 千万人に達する前例のない世界戦争であった。そして、敗戦国ドイツへの報復的な戦後ヴェルサイユ体制は平和をもたらすどころか、ナチスという徒花を生んでしまうこととなり、20 年後、人類はもう一度悲惨な世界大戦を経験させられることになる。

 この第一次大戦勃発から、まもなく100 年を迎えようとしている。日本は、日英同盟のよしみから、連合国の一員として参戦し、ドイツ東洋艦隊を撃滅、その根拠地であった中国山東省青島及び膠州湾を攻略占領、また、ドイツの植民地であった太平洋の南洋諸島を手中にした。更に、連合国の要請を受け、帝国海軍は、英国やフランスの植民地から欧州へ向かう輸送船の護衛の任務を請け負い、地中海には巡洋艦明石及び駆逐艦等計18 隻を派遣し、任務遂行の過程で約80 名の将兵の犠牲を出している。

 今後、第一次大戦開戦から終戦100 周年を順次迎える欧州各地では、各種の記念行事が企画され、催されるものと予想される。日本として、第一次大戦時の「貢献」を積極的にプレイアップし、100 周年を祝賀乃至追悼するような性格のものではないかもしれないが、若干気にかかることがある。中国の動きである。

中国と第一次大戦

 当時の中国も連合国側に参戦している。では、欧米列強に蚕食された清朝が1911(明治44)年、辛亥革命によって遂に倒され、長い王朝の歴史に幕を閉じ、翌年共和制国家である中華民国が成立してわずか数年のまだ十分な国家運営のできていないこの時期に、中国は、第一次大戦でどういう戦いをしたのか。実は、中国は軍隊で通常の意味において戦争をした訳ではない。それではどうしたのか。14 万人にも上る中国人労働者を欧州に派遣し労働力不足を補ったのである。この歴史は、欧州のみならず、中国においても余り知られず、語られることも少なかった。しかし、最近になって、この歴史を掘り起こす歴史家の作業が始まっている。

 例えば、シュ・グオチ(XU Guoqi: 徐国琦)香港大学歴史学教授は、昨年、「西部戦線の新参者: 第一次世界大戦における中国人労働者」(STRANGERS ONTHE WESTERN FRONT: CHINESE WORKERSIN THE GREAT WAR〔Cambridge: HarvardUniversity Press、 2011〕)という340 頁にわたる著書を出版し、この間の経緯を調べている。同書に沿って中国人労働者派遣の歴史概要を述べるとおおよそ次の通りである。

 1916(大正5)年頃から、英国及びフランス政府との契約に基づき、それぞれ9 万5 千名及び4 万4 千名、総計約14 万人の中国人労働者が欧州大陸(主にフランスそしてベルギー)に派遣され、現地の成年男子が兵役にとられた後の労働力不足を補った。当初中国は、ドイツからの中立法違反との批判を回避するため「民間」組織を設立して労働者の募集活動を実施していたが、1917(大正6)年9 月には、正式にドイツに宣戦布告している。派遣された労働者は、ほとんどが山東省出身の農民であった。中国政府の目的は、連合国側について参戦することにより、戦後の国際秩序形成過程に主体的に関与することにあった。即ち、日本がドイツより奪い1915(大正4)年の21 ヵ条要求で中国に承認を強要した山東権益を中国として回復することであった。しかしながら、軍隊による通常の参戦を通じた貢献を行う能力に欠けていた当時の中国は、豊富な労働力を提供することでそれに代替しようとした。

 中国人労働者の従事した労働は、道路・鉄道補修、塹壕掘り、基礎工事の他、火薬工場、兵器工場、製紙工場での労働や貨車・貨物船の荷揚げ・荷下ろしであった。彼らは戦場そのものには送られないとの契約であったが、前線に近い危険な場所も多く爆撃で死亡した者も少なくなかった。終戦後、1850 名の技能労働者を含む約3 千名が主にフランスにそのまま残留し、現地の女性と結婚して家庭を持った者もいたらしい。中国人労働者の取扱いにおいて英仏では多少の違いがあったようだ。英国は中国人を捕虜のごとく取り扱ったのに対し、フランスは相対的に人道的、公平に扱ったという。

 この歴史は、これまで欧州でも中国でもほとんど知られておらず、関連の文献も非常に少ない。それには、いくつかの背景がある。先ず、中国は、当初中立を保っており、英仏両国との契約に基づき中国人労働者提供を通じて彼らに協力していることをドイツに知られたくなかったので積極的な宣伝を行わなかった。第二に、中国は日本や他の欧米列強に中国に対する警戒心や懐疑心を惹起させたくなかった。第三に、英仏両国にとり、中国人労働者徴用は軍事作戦の一環であり秘密にしておくべき性格のものであった。第四に、英仏両国にとり、中国の支援を得ているということは名誉あることではなかった。そして、第五に、英仏の中国人労働者に対する認識は人種差別も伴い、異文化摩擦、不衛生、騒動、治安、感染等の観点から概してネガティブであった。

 以上が同書に書かれた事実概要であるが、結局、中国政府の当初の参戦意図にも関わらず、ヴェルサイユ講和会議は日本の山東権益を承認したため、中国は結局講和条約調印を拒否、この不満は1919(大正8)年の「五四運動」へつながる。ちなみに、講和会議中国首席代表として渡欧した陸徴祥は、袁世凱の要請を受けて、1912年中華民国初代外務大臣に就任し、日本の21 ヵ条要求に署名した人物である。それより前の清朝時代、彼はペテルスブルクに赴任していた際に、ベルギーの駐在武官の令嬢と知り合い結婚、第一次大戦後、公職を辞しベルギーで神父として修道の生活に入り、1949(昭和24)年、ブリュージュで逝去した。ベルギーとの不思議な因縁である。

 重光葵 『外交回想録』 (中公文庫 2011 年)によれば、当時重光は在英日本大使館に勤務していたが、大使館は、中国が参戦すると利権回収を巡り中国問題を混乱に陥れ、連合国はかえって力を中国問題に割かれてしまうとして英国政府に働きかけ、いったんは中国参戦を未然に食い止めた。しかしながら、大戦が長引くにつれ中国の参戦を慫慂する方向となり中国は連合国の賛意を得て遂に参戦した。同書には、わずか一行半ではあるが、「フランスは中国の無尽蔵な人的資源の利用をはかり、多数の苦力をフランスに移入して後方の労務に服役させた」と中国人労働者派遣の話に触れており、一部の関係者には当時から知られていたようだ12。ちなみに、重光は開戦後、ベルリンの日本大使館からベルギー公使館に転勤予定であったが、当時ドイツ軍は既にベルギーに侵入、ベルギー政府がブリュッセルからアントワープに避難していたものの、同市もドイツ軍の空襲を受け始め、結局ベルギー赴任を中止しロンドンに赴任した。

 ベルギーは、第一次及び第二次世界大戦時、悲惨な戦場になったこともあり、各地に記念碑や墓地が散在する。英国コモンウエルスの共同墓地もいくつかあるが、イープルの近くにあるポペリンゲの英軍基地には、犠牲者となった中国人労働者も眠っている。筆者も昨年7 月の肌寒い雨交じりの週末、この墓地を訪問したことがある。広大な墓地の片隅に周囲の墓碑とは異なり、漢字で彫られた墓石が35 碑ほど、ひっそりと眠っていた。ほとんどが山東省、一部は直隷省出身で名前のない碑もあった。ここには、ベルギー駐在の中国大使も慰霊に訪れている。

 最近は、この中国人労働者の歴史をクローズアップする動きがあり、展示活動も行われている。ちなみに、イープルの市中心にある戦争記念館の売店には中国人労働者の歴史について書かれた異なった3 種類の書籍(仏語、蘭語、中国語)が置かれてあった。第一次大戦と日本の関わりに焦点を当てた書籍はやはりない。欧州においても、中国の台頭が、良くも悪くも種々の局面で関心を持たれ焦点が当てられることが多くなっている。そのような状況下、中国人が欧州のために汗や血を流した歴史を欧州の人々に想起させることは、中国のイメージを高めるためのパブリック・リレーションの好材料ともなろう。

 我が国は、既述の通り、第一次大戦の連合国として、インド洋、地中海に海軍艦艇を派遣して連合国輸送船団をUボートから護衛するなどの貢献を行った。独の侵略に抵抗するベルギーに対し、日本国内での義捐金や支援物資募集等強い同情が寄せられたし、戦後まもなく昭和天皇(当時皇太子)が初訪欧された際には、イープルの戦場跡や破壊されたルーヴァン・カトリック大学を訪れ、痛切な思いで弔問されたのは既述の通りである。しかしながら、このような歴史は現在では殆ど記憶されておらず、当国有識者の間でさえ、日本が第一次大戦の連合国であった事実すら十分認識されていない状況である。ややもすれば、中国人労働者の貢献が中国によって強調される影で、わが方の貢献は埋没する危惧もなしとはしない。

 もちろん、歴史に埋もれた中国人労働者の貢献の事実が掘り起こされ、中国近現代史あるいは欧州との関係史の中で正当な位置づけが歴史学者によってなされていくことの意義を否定するつもりは毛頭ない。また、第一次大戦の結果は、日中関係においては山東権益、五四運動等その後の不幸な日中関係を暗示する側面もあり、慎重に取り扱われるべき微妙な性格を有していることも認識しておく必要はある。他方で今後、2014 年から2018年にかけて、ベルギーを含め欧州各地で大規模な各種行事が企画されることが想定されるところ、日本として、積極的広報には必ずしもなじまない側面がある一方で、上記中国の動きなども注視し、歴史が政治的な宣伝に利用されることがないか注意深く見守っていく必要があろう。

 

片山和之

(かたやま・かずゆき)

在ベルギー日本国大使館公使(次席)

1960 年、広島県生まれ。83 年、京都大学法学部卒業、外務省入省。北京大学、スタンフォード大学、ハーバード大学等に留学後、87年に在中国日本大使館二等書記官。外務省アジア局中国課首席事務官、在米国日本大使館参事官、外務省経済局国際エネルギー課長、文化交流課長、在マレーシア日本大使館公使、在中国日本国大使館公使等を経て現職。2011 年、マラヤ大学博士課程修了(博士:国際関係)。

 

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