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吉田松陰とその妹―維新の原動力とは何か

2015年02月06日 公開
2022年06月15日 更新

童門冬二(作家)

 

「稀有な家族」がいればこそ

 文之進、象山に留まらず、松陰は実に多くの人物と出逢い、教えを請い、自らの血肉としました。その意味では、誰からも愛される性分の男だったのでしょう。

 私は松陰に想いを馳せるとき、決まって布施明の名曲「シクラメンのかほり」を思い出します。この曲には「疲れを知らない子供のように」という一節がありますが、私は永らく「“穢れ”を知らない子供のように」だと思い込んでいました。松陰は、まさしく「穢れを知らない子供」のごとく、純粋さを持ち続けた男でした。

 松陰は全国周遊の過程で、肥後藩士宮部鼎蔵との東北の海防視察の約束を守るため、なかなか許可を下ろさない藩に業を煮やし、脱藩に踏み切っています。「視察は急務」という使命感や、他藩士との信義はもちろんのこと、旺盛な好奇心と、実行に移すだけの情熱と行動力が後押ししたのでしょう。甚だ「無鉄砲」ですが、その純真さに周囲の人間は惹かれたのかもしれません。

 実に松陰らしい、象徴的な事件が嘉永7年(1854)3月、黒船に乗り込んで海外渡航を試みた「下田踏海」です。

 松陰は「敵」であるアメリカを知ろうと、密航に踏み切りました。もちろん国禁であり、発覚すれば極刑に処されるのも覚悟の上です。しかし、そこに私利私欲は些かもありませんでした。

 その結果、松陰は萩城下の牢獄・野山獄に投じられますが、ここで注目すべきなのが、松陰の家族です。

 当時は、藩命で家の取り潰しが簡単に行なわれました。松陰が国禁の罪を犯したことで、実家の杉家に累が及んでも何ら不思議はなかったのです。

 しかし杉家の人びとは、松陰を一切非難しませんでした。それどころか、長妹・千代は野山獄へ駆けつけ、手紙とともに「九ねぶ(九年母、ミカンの一種)・三かん・かつをぶし」を差し入れました。また、松陰に読ませるために家族総出で城下を駆け回り、本を集めたという話も残ります。松陰に本を届けたのは当時、12、3歳の末妹・文でした。こうした家族の温かさに、松陰は涙を流したといいます。

 安政2年(1855)に杉家で蟄居の身となった松陰は、私塾・松下村塾を開きますが、そのきっかけをつくったのもまた、松陰の家族です。松陰は野山獄にあった時、囚人相手に『孟子』の講義を行なっていました。その講義録が未完であると知った父・百合之助や兄・梅太郎が、せっかくなので杉家で講義を再開してはどうかと提案したのです。最初は自分たち家族が生徒になるから、と。

 こうして松陰の松下村塾が産声をあげるわけですが、総勢90人を超えたともいう塾生の世話をしたのが、母・瀧や10代半ばの妹・文でした。もちろん、うら若き文には松陰の思想の詳細は分からなかったでしょう。それでも、「兄上が日本のために、何か良いことをしようとしている」とは肌で感じられたはずです。

 こうした家族の構図は、龍馬の坂本家と似ています。龍馬の縦横無尽の活躍は、行動に口出しせず、金を工面した兄・権平や、良き理解者であった姉・乙女の存在抜きには語れません。松陰も龍馬も、家族が「お上に目をつけられるから、大人しくしていろ」と押さえつけていれば、特異な才能は埋もれてしまっていたでしょう。事実、幕末という時代ではそうした家が普通でした。

 「穢れを知らない子供」のような松陰が、動乱を思うがまま駆け抜けることができたのは、松陰を理解し、庇い、支えた、温かい「稀有な家族」の存在が極めて大きかったのです。

 

その「熱」は受げ継がれて

 「松本村は鄙びた村に過ぎないが、誓って日本国の根幹とならん」

 松下村塾で塾生に教えるにあたり、松陰は壁にこのように渾毫したといいます。誤解されがちですが、松陰は松下村塾で「尊王攘夷」を説いていたのではありません。松陰が塾生たちに真に伝えようとしたこと、それは民にかぶさる様々な社会問題の解決法でした。

 松下村塾がユニークなのは、実際の政治問題をテーマに議論を重ねた点です。松陰が大切にしたのは事件の解釈ではなく、解決法を自分たちの手で掴むことでした。たとえば松陰は、経済を重要視していました。経済とはもともと、苦しむ民を救う「経世済民」の略語です。民を救い、日本を守るにはどうすればいいのか。これこそが、松陰が塾生に問いかけ続け、ともに答えを導き出そうとした命題でした。

 松陰の代名詞のようになっている「尊王攘夷」の考え方にしても、松陰にとっては「目的」ではなく、日本を守るための「手段」に過ぎません。旧態依然の幕府政治では、やがて列強に呑み込まれてしまう…。その危機感から、松陰は反幕と尊王攘夷を唱えたのです。

 しかし、松陰は次第に活動を尖鋭化させたため、幕府に危険視されて、安政6年(1859)に「安政の大獄」で捕まります。これはひとえに「一刻も早く事を為さないと」という焦燥感に駆られてのことでした。また、松陰の座右の銘は「至誠にして動かざる者、未だ之有らざるなり」です。真心をもって接すれば、意見を異にした相手とも分かり合える。松陰はそう信じればこそ、自らの危険を顧みずに尊王攘夷へと突き進み、獄中でも尋問の場でも、幕府の役人相手に自説を滔々と述べました。結果、松陰は30歳の若さにして、志半ばで処刑されるのです。

 しかし――松陰の純粋な志が、それで消えることはありませんでした。残された者たちに確実に受け継がれたのです。その象徴が、松陰の妹・文と結婚した弟子の久坂玄瑞であり、同じく妹の寿と結ばれた松陰の盟友・小田村伊之助(後の楫取素彦)であったでしょう。

 松陰に深く傾倒していた久坂は、師の遺志を継ぎ、長州の尊王攘夷派のリーダー的存在として新たな日本を創るべく奔走します。惜しくも元治元年(1864)の禁門の変で命を落としますが、その後も高杉晋作ら松下村塾の塾生たちが活躍し、明治元年(1868)、ついに「維新」は果たされました。

 また、一時期ではありますが、松下村塾の世話をしたのが長州藩の儒官・小田村でした。彼は動乱よりも平時に活きるタイプだったようで、明治時代、初代群馬県令を務めるなど能力を発揮しています。

 それにしても、幕末の長州のエネルギーには目を見張るものがあります。8月18日の政変、禁門の変、列強との下関での戦争、2度の長州征伐…。幾度となく窮地に陥りながらも、長州は決して維新への灯を消しませんでした。背景にはやはり、松陰の存在があったのでしょう。私利私欲なく、純粋に日本のことを想い続けた松陰が宿す「熱」が松下村塾の塾生たちに火をつけ、松陰の死をきっかけに塾生が起ち上がると、焔は長州全体を覆いつくし、さらにはその火が全国へと広かって、維新は結実したのです。その意味で、松陰の志こそが、「維新の原動力」と断言できるでしょう。

 さらにいえば、松陰の「熱」を大事に守り続けたのが、文たち家族でした。時代の変革に限らず、大志は決してひとりで成し遂げられるものではありません。身近な人間の理解と協力が不可欠なのです。松陰や文は、私たちにそのことを教えてくれているのではないでしょうか。

 

<掲載誌紹介>

2015年2月号

今から150年前、日本が果たした一大変革である明治維新。その震源地こそが、長州藩の城下町・萩でした。「民を救い、日本を守るにはどうすればよいか」。兵学者である松陰は、その命題を若者たちに問い、自らも一緒になって考えます。そんな松陰を信頼し、支える妹や杉家の家族。「維新の奇跡」を起こしたものとは、果たして何であったのかを探ります。
第二特集は跡見花蹊、香川綾、下田歌子ら「女子大学創立者ものがたり」です。

歴史街道

 

BN

著者紹介

童門冬二(どうもん・ふゆじ)

作家

1927年東京生まれ。東京都職員時代から小説の執筆を始め、’60年に『暗い川が手を叩く』(大和出版)で芥川賞候補。東京都企画調整局長、政策室長等を経て、’79年に退職。以後、執筆活動に専念し、歴史小説を中心に多くの話題作を著す。近江商人関連の著作に、『近江商人魂』『小説中江藤樹』(以上、学陽書房)、『小説蒲生氏郷』(集英社文庫)、『近江商人のビジネス哲学』(サンライズ出版)などがある。

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