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功山寺挙兵〜高杉晋作の決断

2015年02月27日 公開
2022年06月15日 更新

伊東成郎(歴史研究家)

 

高杉晋作の蜂起

 藩内における幕府恭順派台頭の中で、身の危険を覚えた高杉晋作は、一時筑前へ逃れるものの、ほどなく帰藩。そして元治元年12月15日、決死の行動に出る。クーデターを企図した、功山寺決起である。

 高杉はごく少数の勢力を率いて、伊崎の藩庁出張所を制圧。そして近傍の寺に屯営を構えて、三田尻に停泊中の藩艦を奪取したのである。やがて、高杉の元に奇兵隊などの諸隊も参集。彼らは「正義派」と称され、俗論派主導の藩政府への抵抗勢力となった。

 高杉は、決起に際して示した檄文で、藩政を私物化する「姦吏」を「御国家の御恥辱」とまで糾弾し、そして翌元治2年1月5日より、5度にわたり両勢力による内訌戦が展開した。民意も得た高杉らの軍は勇戦し、やがて藩政から幕府恭順勢力を払拭した。

 この決起と戦闘には、伊藤俊輔(博文)や山県狂介(有朋)ら旧松下村塾の少壮も、果敢に加わっていた。吉田松陰は前出『己未文稿』の門下生評に「小助(山県)の気」や「伝之助(伊藤)の勇敢事に当たる」面を評価しており、さらに他日の書簡でも伊藤については「周旋力」を高く評価している。亡師の洞察に応えるかのように、彼らは以降も邁進した。

 この事態を受けて、危機感を抱いたのが幕府である。彼らは再度の長州征伐を視野にいれ、慶応元年(1865)5月には将軍徳川家茂が大坂に入った。

 

ついに結ばれた薩長同盟、そして…

 だが、幕府の予期せぬところで、薩摩と長州が和解を遂げる。慶応2年(1866)1月の薩長同盟である。坂本龍馬の仲介のもと、長州藩は桂小五郎、薩摩藩は西郷隆盛が会談に臨んだ。桂は松下村塾の塾生ではないが、若き日に藩校明倫館で松陰から親しく兵学教授を受けており、遺志を継ぐ1人であった。

 この歴史的な「雪解け」により、長州軍には薩摩藩を通じての武器購入ルートが確立した。ことに先鋭兵器のミニエー銃の購入は軍事力に大きく裨益することとなった。それまでの汎用銃ゲベールは300歩の距離での命中率が8パーセントだったのに対し、ミニエーは44パーセントもの高率を持ち、距離800歩での命中率は27パーセントを保っていたという(所荘吉「古銃について」)。

 こうした事態を把握せぬまま、幕府は慶応2年6月より、束西南北の四方から長州藩に順次来襲、随所で激戦が展開された。薩摩はもちろん、幕府からの出戦要請を拒絶している。

 幕府軍の中核である、いわゆる旗本軍は潤沢な武備で参軍したが、その中には旧態依然の武装で、戦国期さながらの甲胄や火縄銃を装備した藩兵もあった。彼らはミニエー銃などを駆使する長州軍の前に圧倒されていく。その立役者はやはり、高杉であった。

 やがて将軍家茂が大坂で客死。はかばかしくない戦況の中、幕府連合軍はさしたる成果を見ることなく、長州から撤退した。

 この戦いののち、政局は反幕府派が主導してゆく。慶応3年(1867)10月には大政奉還、同年12月には王政復古のクーデターが起こり、新政府が樹立。そして、翌慶応4年には、戊辰戦争が開戦。「新政府軍」が「旧幕府軍」と戦った。もちろん新政府軍の中心は長州であり、松陰の感化を受けた者たちが躍進していった。そして日本は維新を迎えるのである。

 なお、高杉晋作は、戊辰戦争には参加していない。第二次長州征伐後、肺結核が重篤化してしまい、慶応3年4月、29歳で没した。師や盟友らと同様、手の届くところにあった維新を見ることなく高杉は逝った。しかし、元治元年末の決起以降の彼の確かな行動の足跡は、失意の中で自らに託された広田精一からのメッセージに、果敢に応えたものだったのかもしれない。

 

伊東成郎(歴史研究家)

1957年、東京都生まれ。明治大学卒。執筆活動以外に、メディア出演や講演活動も行っている。『新選組残日録』など著書多数。

 


<掲載誌紹介>

2015年2月号

今から150年前、日本が果たした一大変革である明治維新。その震源地こそが、長州藩の城下町・萩でした。「民を救い、日本を守るにはどうすればよいか」。兵学者である松陰は、その命題を若者たちに問い、自らも一緒になって考えます。そんな松陰を信頼し、支える妹や杉家の家族。「維新の奇跡」を起こしたものとは、果たして何であったのかを探ります。
第二特集は跡見花蹊、香川綾、下田歌子ら「女子大学創立者ものがたり」です。

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