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木曾義仲はなぜ「情」を重んじたのか

2015年06月07日 公開

歴史街道編集部


嵐山を流れる都幾川
 

木曾義仲の魅力とは?

埼玉県嵐山町。この地に、大蔵館跡があります(現在は大蔵神社)。木曾義仲の生涯は、戦乱と悲劇の中から始まるといってもよいでしょう。

久寿2年(1155)8月16日、大蔵館にいた義仲の父・源義賢〈よしかた〉は突如、敵の襲撃を受け、義父・秩父重隆とともに討たれました。敵は義賢の兄・義朝の子、つまり義賢の甥にあたる源義平。悪源太の異名で知られる豪の者です。

鎌倉に本拠を置き、下野守に任じられて関東を地盤とする源義朝にとって、仲違いした父・為義が義朝に代わって嫡男とした弟・義賢が、秩父氏と結んで北関東で勢力を広げるのは目障りでした。そこで義朝の息子・義平が、義賢を亡き者としたのです。

この時、駒王丸と名付けられていた義仲はまだ2歳。当時、大蔵館にいたのか、父・義賢の地盤であった上州にいたのかは不明です。しかし、義平は義賢の息子も討つことを命じ、義仲の運命は風前の灯でした。

『源平盛衰記』などによると、駒王丸の討手を命じられたのは、秩父重隆の甥にあたる畠山重能でした。重能は駒王丸を捕えますが、幼い子供を殺すにしのびず、同じく義朝方で武蔵に地盤を置く、斎藤実盛〈さねもり〉に密かに託します。

斎藤もまた、駒王丸を密かに木曾の中原兼遠に託すよう、便宜を図りました。一説には自ら駒王丸とその母親を連れて、木曾の中原のもとにまで赴いたともいわれます。

畠山にしても斎藤にしても、駒王丸の首を差し出せば、義平から恩賞を与えられたでしょうし、逆に逃がしたことが露見すれば、ただでは済まなかったはずです。しかし、彼らは命令に背き、駒王丸を生かしました。なぜか。

まずは幼子を手にかけるのは、当時の武士にとっても許される行為ではなかったのでしょう。主君筋からの命令とはいえ、武士として、人の道に反することはできないという思いが、二人にはあったのではと感じます。

また主君筋といっても、源義朝は彼らにとって絶対的な主人ではありません。状況いかんでは義賢に仕えることも、また平氏に味方することも十分にあり得ました。そうであるならば、義賢の忘れ形見・駒王丸は、源氏の御曹司として将来、大将になり得る存在なのです。これを守るのは、武士としては当然の判断だったのかもしれません。

木曾の中原兼遠のもとで逞しく成長した義仲は、敵方ながら幼少の自分の命を救ってくれた斎藤実盛らのことを、おそらく兼遠から聞いたはずです。そして義仲は、自分が今日あるのは、人の「情」によるものであると強く感じたことでしょう。

敵の手から匿って、自分を育ててくれた養父・中原兼遠もまた、義仲に「情」をかけてくれた恩人です。いわば「情」によって生かされていることを悟った義仲は、これに応えるべく自分もまた「情」を大切にする武士たらんと心に誓ったのかもしれません。

そしてそれこそが、樋口兼光、今井兼平ら四天王や巴御前をはじめとする、義仲の生涯を支える人々との結束の核にあるのではと思えるのです。

義仲は、嬉しい時には大声で笑い、悲しい時にはぽろぽろと涙をこぼす、極めて人間臭い人物であったように感じます。そして、何より人の情を大切にした。そんな主君がいれば、周囲は損得抜きで、ついていきたくなるのではないでしょうか。

大蔵館跡のある嵐山町には、義仲の産湯の清水が湧く鎌形八幡宮もあり、武蔵野の面影が随所に感じられます。広大な草原を騎馬で疾駆する坂東武者たち。彼らの武士として、人間としての熱さが、木曾で成長した義仲という人物にどこか投影していた部分もあるのかもしれません。

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