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土方歳三はなぜ、戦い続けたのか

2015年06月21日 公開
2023年01月16日 更新

『歴史街道』編集部

明治2年5月11日(1869年6月20日)、箱館戦争において、土方歳三が戦死しました。榎本武揚が総裁の箱館政権の陸軍奉行並であり、何より新選組副長として知られます。

土方は新選組局長近藤勇が新政府軍に捕らわれ、板橋で処刑された後も、宇都宮、会津、仙台、箱館と転戦し、戦い続けました。なぜ土方は戦い続けたのか、その理由を探ってみます。

土方歳三について、「滅びの美学」と評する人もいます。また、幕臣として、前将軍徳川慶喜のために戦い続けたと語る人もいますが、果たしてそうなのでしょうか。

土方だけでなく、新選組をして「滅びの美学」と評する人もいます。滅んでいくものに対し、ある種の美しさを見出す日本人の感性を指すもので、これは土方当人の問題ではなく、土方や新選組を日本人がどう見るのかという問題でしょう。

従って土方に「滅びの美学」を感じるか否かは、見る人次第ということになりますが、私が感じるのは、「滅びの美学」というレッテルを一度貼ってしまうと、多くの人はそれでわかった気になって、彼らが何を思い、何をなそうとしていたかを直視しなくなりがちだということです。それでは、土方がなぜ戦い続けたのかは、よくわからないでしょう。

一方、土方が前将軍徳川慶喜のために戦い続けた、というのはどうでしょうか。確かに近藤、土方以下、新選組隊士は幕臣にとりたてられていますから、主君は徳川将軍となります。しかし、自ら政権を手放し、鳥羽・伏見の戦いでは家臣らを置いて自分だけ江戸に逃げ帰り、さっさと恭順した慶喜のために、さして縁もない土方が戦い続けるでしょうか。

そうした「建て前」に、人は命を賭けられないのではと思います。また、慶喜が恭順しているのならば、家臣も恭順するのがむしろ主君のためです。しかし、土方は戦い続けました。なぜ、恭順を潔しとしなかったのか。

一つに、王政復古の大号令、小御所会議、そして鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が朝敵とされるまでの流れが、薩長の謀略によって行なわれた事実です。政治的寝技で「賊軍」のレッテルを貼られたことに、幕府側の人間が憤激し、納得できないのは当然でした。

そしてもう一つ、土方が戦い続けた理由の最大のものと私が考えるのは、近藤勇の捕縛と処刑です。

甲州での敗北の後、下総流山で一隊を組織し、再起を図ろうとしていた近藤・土方は新政府軍に包囲され、近藤は自ら新政府軍本営に出頭、その間に土方以下を脱出させました。

新政府軍に包囲された時、切腹しようとする近藤に土方は、「今死ぬのは犬死であり、幕府歩兵頭・大久保大和が、諸方の歩兵をとりまとめるため出張していると言えば申し開きはできる」と説得、近藤も承知し、本営に出向くという土方を制して、自ら出向いたのです。

しかし、新政府軍本営で、大久保大和は新選組局長近藤勇であることが露見。土方は江戸に潜入して勝海舟や大久保一翁に近藤救出を嘆願しますが叶わず、近藤は慶応4年(1868)4月25日、板橋宿の馬捨場で、切腹することも許されず、罪人として斬首されました。

土方は宇都宮の戦いを経て会津に入り、閏4月、会津若松の天寧寺に近藤の墓碑を建立しました。墓碑に刻まれた法名は「貫天院殿純忠誠義居士」。会津藩主・松平容保〈かたもり〉が授けたものといわれます。

自ら建てた近藤の墓碑の前で、土方は何を思っていたでしょうか。流山で近藤を本営に赴かせていなければ、そして近藤の望む通り、切腹させてやっていれば、せめて縄目の恥辱を受けずに済んだのではなかったか…という悔恨とともに、激しい憤りがあったはずです。

近藤を新選組局長と知りながら、武士としての切腹ではなく、罪人として斬首したということは、新政府軍は新選組を武士として遇さず、その誇りを泥足で踏みにじったに等しい。これは幕末に命がけで任務に当たった新選組を根底から否定するものであり、新選組副長として断じて許せるものではない。

もし自分が敵に降伏するようなことがあれば、それは新選組の否定を自ら認めることになる。それでは新選組を信じ、あるいは厳しい隊規に則って命を落としてきた多くの隊士たちにも顔向けができない。近藤と新選組のためにも、自分が降伏することはあり得ない。

土方がそう考えても、不思議ではないと思うのです。そしてそうであれば、斎藤一が恩義のある会津と最後まで一緒に戦うというのに対し、土方はそれを認めつつも、自分はさらに北を目指したのは、会津とともに降伏するわけにはいかないという思いがあったからではなかったか。

明治2年5月11日。新政府軍による箱館総攻撃が始まります。五稜郭の旧幕府軍側もそれを予期しており、土方は額兵隊二小隊を率いて、一本木関門に向かいました。そして伝習士官隊と合流すると、反撃を命じます。土方は蝦夷地ではただ一人負け知らずの常勝将軍でした。

やがて浮き砲台となって箱館湾で戦っていた幕府軍艦回天が陸上の敵から攻撃を受けると、土方は乗組員の五稜郭への脱出を援護、その後、一本木付近で銃弾を受け、土方は戦死しました。享年35。

榎本武揚ら五稜郭の首脳陣が降伏するのは、それから一週間後のことです。幹部の中で土方は一人、ついに降伏をせず、自らの身をもって新選組の誇りを守ったといえるでしょう(辰)

土方歳三写真:国立国会図書館蔵

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