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今村均~10万将兵を救った「徳」の人

2015年06月28日 公開

歴史街道編集部

写真:ラバウルの今村均、晩年、自宅の謹慎所の今村均
写真:晩年、自宅の謹慎所の今村均

 

太平洋戦争時、孤立無援となったニューブリテン島ラバウルで、10万人の将兵を正しく導いてその命を守り、戦後は自ら望んで部下たちのいる収容所に入り、その後も自ら築いた「謹慎所」で生活して、戦死者の冥福を祈り続けた軍人がいました。陸軍大将今村均です。

今回は人徳の将、今村均の人柄を示すエピソードをいくつかご紹介してみます。

「日本は今、一時的に戦力を失っているに過ぎない。必ず反攻してくる。日本軍が反撃してくるまで、ラバウルで生き延びて戦おう」。ラバウルの防衛を担う第八方面軍司令官今村均が、部下の将兵にそう呼びかけたのは、昭和19年(1944)春のことでした。

かつて最強「ラバウル航空隊」の根拠地として敵から恐れられたラバウルも、すでに満足な飛行機も艦船もなく、一方で連合軍の空爆は連日続けられ、10万の将兵はなす術もなく、普通であれば士気を喪失しても不思議ではありませんでした。

しかし今村は将兵たちを励まし、総員を戦力化する軍事訓練と、島全体を要塞化するための地下工事を推し進め、地下要塞の全長は実に370km、東京から岐阜県大垣間の距離に匹敵する規模に及ぶのです。

さらに今村は、糧食を枯渇させないための「現地自活」も具体的に進めます。「畑は一人200坪耕しなさい。鶏も一人10羽ずつ飼いなさい」。そう命じた結果、ラバウルに7000町歩にも及ぶ広大な耕地が生まれるに至りました。

「これならやれる。100年戦争をしてやろう。食糧が豊かで軍備の充実した『今村王国』をつくって、100年間頑張ろうじゃないか。最後まで意気軒昂を保ち、友軍の反攻を待つのだ」。将兵たちはそれを合言葉に、一致団結していくのです。

実際、日を追うごとに要塞として防備が整っていくラバウルに対し、連合軍側も無理攻めしては大けがしかねないと判断、周辺を固めつつも、ラバウル攻略はあきらめました。

今村はラバウルで階級を越えて部下たちに気さくに声をかけ、それが多くの将兵に親近感を抱かせ、「この人のためならば」という気持ちを起こさせたといいます。

そんな今村の人柄は、ラバウルに赴任する前の、ジャワ方面の第十六軍司令官時代にも見出せます。昭和17年(1942)、今村は僅か4ヵ月で全蘭印軍を降伏させ、ジャワ(現在のインドネシア)を占領しました。ところが武力を誇示する入城式も行なわず、降伏したオランダ軍将校がサーベルを帯びることを認めます。

また政治犯として刑務所にいたスカルノに対し、「日本軍に協力しなくても結構。あなたの政治的信念に従って行動してください」と言って、出獄させました。さらに全軍に、次のような布告を出しています。

「被占領民の矜持を奪うようなことは、絶対にしてはならない」。矜持を失った民族には滅亡しかない。我々は確かに今、ジャワを占領している。しかし、そこに住む人たちの誇りまでも奪うことは、断じてやってはならない。それが今村の信念であったのです。

こうした今村の方針は、現地の人々からは歓迎され支持されましたが、一方で陸軍中央の不興を買います。陸軍の中には「占領地に武威を示すべき」と考える者も少なからずおり、現地視察も行なわれますが、今村の統治に瑕瑾を見出すことができません。そのため、ジャワからラバウルへの異動は、(嫌がらせ的な)左遷ではないかともいわれました。

今村のラバウル生活は3年半に及びます。その間、将兵たちを一つにまとめあげますが、終戦の詔勅が知らされた夜、事件が起こりました。青年将校らが「本国が降伏した以上、我々は『今村王国』を建設して戦うべきだ。武装解除すべきでない」と決起を図ったのです。

これに対して今村はなだめます。「君たちは、ラバウルに難攻不落の要塞を見事に築き上げた。そんな優秀な人材たちが、ここであたら命を失っては、日本の再起は覚束ないじゃないか。ラバウルで活躍した君たちのエネルギーを、帰国して国の復興にこそ役立ててほしい」。

そして今村は武装解除後、オーストラリア軍のキャンプに押し込められると、豪軍に交渉して、復員後の将兵たちの知識となるよう技術や経済の講座を開き、学べるようにしました。

今村はその後、戦犯として軍法会議にかけられ、オーストラリア軍の裁判で死刑にされかけますが、現地の人々の証言などもあり、禁固10年で昭和24年(1949)に巣鴨プリズンに収容されます。しかし、部下たちが劣悪な環境のニューギニアのマヌス島刑務所にいることを知ると、翌年、自ら望んでマヌス島に移りました。

それを聞いたGHQ司令官のマッカーサーは、「日本に来て以来、初めて真の武士道に触れた思いだった」と語ったといいます。

昭和28年(1953)、マヌス島刑務所閉鎖に伴い、再び巣鴨プリズンに移った今村が、刑期を終えて出所したのは、翌昭和29年(1954)11月のことでした。

ところが今村は、経堂の自宅の庭に3畳半ほどの謹慎室を建て、没するまでの十数年間のほとんどをそこで過ごし、命を落とした将兵たちの冥福を祈り続けるのです。

リーダーとはどうあるべきか、その責任の取り方とは。今村の人生はそのことを雄弁に伝えているように感じられます。

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