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戦艦大和と武蔵は、日本人の「魂」と「技術力」の結晶だった!

2015年07月08日 公開

戸高一成(大和ミュージアム館長)

 

多くの日本人が特別な感慨を抱く戦艦大和と武蔵

戦後70年の今年、海に沈む戦艦武蔵が初めて発見され、世界中の注目を集めた。また、今年5月、呉市の大和ミュージアムは、開館10年で来館者が1,000万人を突破している。今なお、多くの日本人が戦艦大和と武蔵に特別な感慨を抱くのは、なぜなのか。

 

今年、相次いだ武蔵の「新発見」

 今年(平成27年〈2015〉)は、戦艦大和の姉妹艦である武蔵の「新発見」が続きました。3月にはフィリピンのシブヤン海に没した武蔵の船体が発見され、5月には46センチ主砲発射時の写真が新たに見つかっています。特にシブヤン海に沈む武蔵は、その様子がインターネット動画で生中継されたこともあり、日本のみならず世界中の注目を集めました。

 筆者が館長を務める広島県呉市の大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)も、平成17年(2005)4月のオープンから10年を迎えた今年5月、総来場者数が1,000万人を超えました。毎年平均100万人ほどの方が足を運んでくださったことになり、特に今年は例年にないほどの勢いになっています。

 今なお、多くの人々が戦艦大和、武蔵という「大和型戦艦」に特別な思いを抱き続けている何よりの証でしょう。

 大和と武蔵は戦後、しばしば「無用の長物」と称されてきました。確かに両艦ともに太平洋戦争の局面を覆す活躍をついに果たせぬまま、生涯を終えています。

 しかしながら、大和型戦艦が搭載した46センチ三連装主砲は、戦艦搭載の艦砲として今に至るまで最大であり、装甲は46センチ砲弾を受けても耐え得る強靭性を誇りました。大和と武蔵が「史上最大・最強の戦艦」であることは紛れもない事実なのです。

 歴史に向き合う際、過去の出来事を現在の価値観で推し量っては、時に真実を見落としてしまいます。当時の人々が置かれていた状況や思いを客観的に捉えて、初めて本当の意味での解析ができるのです。

 では、日本人は、なぜ戦艦大和と武蔵を生みだしたのか。不世出の戦艦に託したものとは、いったい何であったのか――。今、それらに改めて目を向けることに、極めて重大な意味があると私は考えています。

 

なぜ、大和と武蔵を造ったのか?

 日本が大和型戦艦の一番艦である大和の建造を始めたのは、昭和12年(1937)のことでした。日本海軍が巨大戦艦を求めた理由を知るには、大正11年(1922)締結のワシントン海軍軍縮条約に目を向ける必要があります。

 日露戦争、第一次世界大戦を経て世界の大国の仲間入りを果たした日本でしたが、これを押さえつけようとするアメリカら主導の軍縮条約によって、今後10年間の戦艦新造が禁止されました。日本は、建艦能力の全てを注ぎ込むはずの「八八艦隊計画」の中止を余儀なくされます。

 その後、さらに補助艦保有量を制限するロンドン海軍軍縮条約を経て、このままでは仮想敵国のアメリカに抗する術のない日本は、軍備平等を主張するも受け入れられず、会議を脱退。しかしアメリカとの国力差は隔絶しており、日本は国家予算の全額を投入しても建艦競争には勝てないのが現実でした。

 「持たざる国」日本が「持てる国」アメリカに抗しうる戦力を持つには、どうすべきか――。そう考えた海軍が計画し、建造したのが、46センチ主砲を搭載する大和型戦艦でした。

 アメリカがどれほど多くの戦艦を揃えていても、現実的には一度の艦隊決戦に全てを投入することはありえず、大和型戦艦を擁すれば個別の決戦で敵艦隊の戦力を凌駕できます。その戦略は、当時の日本の経済力を鑑みれば実に理に適った選択でした。

 超大国による圧迫を前に、「国を守る戦備をどう実現するか」を模索する日本海軍が辿りついた乾坤一擲の一手、それこそが戦艦大和と武蔵であったのです。

 

「モノづくり」の本質を知っていた日本人

 もっとも、大和型戦艦を設計するだけであれば、当然ながら、造船先進国である当時のアメリカやイギリス、フランスでも可能でした。しかし、工業製品は図面を書いただけでは、文字通り「絵に描いた餅」に過ぎません。

 今でも、仮に火星へ行くロケットの設計図があったとしても、それを実際につくれる国や組織はごく僅かです。それを思えば、当時の日本海軍が大和型戦艦を計画・設計し、実際に造り上げたことは、素直に賞賛すべき偉業でしょう。

 大和型戦艦の建造で、まず驚かされるのが、日本が国産初の戦艦「薩摩型」竣工(明治43年〈1910〉)から僅か30年程で、世界一の戦艦建造を実現している点です。薩摩型までの日本は外国に戦艦を発注しており、明治38年(1905)の日本海海戦で活躍した戦艦三笠もイギリス製でした。

 しかし日本は「列強に追いつけ、追い越せ」の気概のもと、大正9年(1920)竣工の長門型戦艦で世界の水準に追いつき、その15年後には、大和型戦艦を計画するに至るのです。

 これほどの速度で建艦技術の革新を遂げたのは日本だけですが、それを可能にしたものは何だったのでしょうか。

 まず、20世紀初頭から世界で巻き起こった爆発的な技術革新の流れを逃さず、しっかりとそれに乗ったことが大きかったでしょう。エンジンにおいてはレシプロからタービン、ボイラーは石炭焚きから重油焚きへと変わる過渡期にあって、日本の技術者は懸命に研究開発を行ない、海軍も莫大な開発予算を計上し、後押ししました。

 そして、要となったのが、日本人の伝統的な「モノづくりの力」です。

 日本人は古来、モノづくりに並々ならぬこだわりを持ち続けてきました。「士農工商」といわれる江戸時代ですら、職人の社会的な評価は実際には非常に高く、刀鍛冶を例に挙げると、たとえ武士でも名工には頭を下げてでも刀を打ってもらいたいというような社会でした。

 これが、たとえば隣国の中国では、有能とされる人間がモノづくりの仕事に就くことはありません。彼の地の職人は世襲制が基本で、能力の如何は問われないのです。そのため清国は、19世紀末より他国から最新艦を購入しながらも、自分たちの手ではついに軍艦を造りませんでした。

 これに対し日本人は、「自分たちの手で造りたい」との思いが強く、国産戦艦の建造に着手し、絶え間ない技術革新を図っていったのです。

 

継承された「匠の技」

 また、ワシントン条約で戦艦新造を禁じられても、日本海軍が「匠の技」の継承を怠らなかった点も見逃せません。

 戦艦は他の艦船とは規模や構造が大きく異なるため、造船工は戦艦そのものに触り続けないと建艦技術を磨くことはできません。

 そこで日本海軍は「改装」という名目で戦艦をたびたび呉、横須賀、川崎、長崎のドックに入渠させ、「実地訓練」を行なうことで工員の技術レベルの低下を防ぎました。一度で済む工事をわざわざ二度に分けることもあり、当時の戦艦は海に浮かんでいるよりもドックに入っている時間の方が長いような場合さえあったほどです。

 モノづくりで大切なのは、工業品を「つくる・つくらない」よりも、常に「つくることのできる力」を潜在的に維持するということです。作る、作らないという選択は、作れる力を持っている場合に限られていることを理解しなければなりません。

 もしワシントン条約を受けて「当分、戦艦を造ることはない」と技術の継承を怠っていたら、その後、状況が変化しても、もはや新鋭戦艦を「つくる」ことはできません。そうなれば大和型戦艦も、設計はできても実現化までは辿りつけなかったでしょう。

 こうした「モノづくりの本質」を押さえていたからこそ、日本海軍は史上最大の戦艦をその手で生み出すことができたのです。

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著者紹介

戸高一成(とだか・かずしげ)

呉市海事歴史科学館館長

1948年、宮崎県生まれ。多摩美術大学卒。財団法人史料調査会理事、厚生労働省所管「昭和館」図書情報部長などを歴任し、2005年より現職。海軍史研究家。著書に、『海戦からみた日清戦争』(角川書店)ほか多数。

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