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戦艦大和と武蔵は、日本人の「魂」と「技術力」の結晶だった!

2015年07月08日 公開
2023年02月22日 更新

戸高一成(呉市海事歴史科学館〔大和ミュージアム〕館長)

戦艦大和
 

「モノづくり」の本質を知っていた日本人

 もっとも、大和型戦艦を設計するだけであれば、当然ながら、造船先進国である当時のアメリカやイギリス、フランスでも可能でした。しかし、工業製品は図面を書いただけでは、文字通り「絵に描いた餅」に過ぎません。

 今でも、仮に火星へ行くロケットの設計図があったとしても、それを実際につくれる国や組織はごく僅かです。それを思えば、当時の日本海軍が大和型戦艦を計画・設計し、実際に造り上げたことは、素直に賞賛すべき偉業でしょう。

 大和型戦艦の建造で、まず驚かされるのが、日本が国産初の戦艦「薩摩型」竣工(明治43年〈1910〉)から僅か30年程で、世界一の戦艦建造を実現している点です。薩摩型までの日本は外国に戦艦を発注しており、明治38年(1905)の日本海海戦で活躍した戦艦三笠もイギリス製でした。

 しかし日本は「列強に追いつけ、追い越せ」の気概のもと、大正9年(1920)竣工の長門型戦艦で世界の水準に追いつき、その15年後には、大和型戦艦を計画するに至るのです。

 これほどの速度で建艦技術の革新を遂げたのは日本だけですが、それを可能にしたものは何だったのでしょうか。

 まず、20世紀初頭から世界で巻き起こった爆発的な技術革新の流れを逃さず、しっかりとそれに乗ったことが大きかったでしょう。エンジンにおいてはレシプロからタービン、ボイラーは石炭焚きから重油焚きへと変わる過渡期にあって、日本の技術者は懸命に研究開発を行ない、海軍も莫大な開発予算を計上し、後押ししました。

 そして、要となったのが、日本人の伝統的な「モノづくりの力」です。

 日本人は古来、モノづくりに並々ならぬこだわりを持ち続けてきました。「士農工商」といわれる江戸時代ですら、職人の社会的な評価は実際には非常に高く、刀鍛冶を例に挙げると、たとえ武士でも名工には頭を下げてでも刀を打ってもらいたいというような社会でした。

 これが、たとえば隣国の中国では、有能とされる人間がモノづくりの仕事に就くことはありません。彼の地の職人は世襲制が基本で、能力の如何は問われないのです。そのため清国は、19世紀末より他国から最新艦を購入しながらも、自分たちの手ではついに軍艦を造りませんでした。

 これに対し日本人は、「自分たちの手で造りたい」との思いが強く、国産戦艦の建造に着手し、絶え間ない技術革新を図っていったのです。
 

継承された「匠の技」

 また、ワシントン条約で戦艦新造を禁じられても、日本海軍が「匠の技」の継承を怠らなかった点も見逃せません。

 戦艦は他の艦船とは規模や構造が大きく異なるため、造船工は戦艦そのものに触り続けないと建艦技術を磨くことはできません。

 そこで日本海軍は「改装」という名目で戦艦をたびたび呉、横須賀、川崎、長崎のドックに入渠させ、「実地訓練」を行なうことで工員の技術レベルの低下を防ぎました。一度で済む工事をわざわざ二度に分けることもあり、当時の戦艦は海に浮かんでいるよりもドックに入っている時間の方が長いような場合さえあったほどです。

 モノづくりで大切なのは、工業品を「つくる・つくらない」よりも、常に「つくることのできる力」を潜在的に維持するということです。作る、作らないという選択は、作れる力を持っている場合に限られていることを理解しなければなりません。

 もしワシントン条約を受けて「当分、戦艦を造ることはない」と技術の継承を怠っていたら、その後、状況が変化しても、もはや新鋭戦艦を「つくる」ことはできません。そうなれば大和型戦艦も、設計はできても実現化までは辿りつけなかったでしょう。

 こうした「モノづくりの本質」を押さえていたからこそ、日本海軍は史上最大の戦艦をその手で生み出すことができたのです。

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著者紹介

戸高一成(とだか・かずしげ)

呉市海事歴史科学館館長

1948年、宮崎県生まれ。多摩美術大学卒。財団法人史料調査会理事、厚生労働省所管「昭和館」図書情報部長などを歴任し、2005年より現職。海軍史研究家。著書に、『海戦からみた日清戦争』(角川書店)ほか多数。

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