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戦艦大和と武蔵は、日本人の「魂」と「技術力」の結晶だった!

2015年07月08日 公開
2023年02月22日 更新

戸高一成(呉市海事歴史科学館〔大和ミュージアム〕館長)

「大艦巨砲主義」は偽り!?

 大和型戦艦については、航空機が主役となった太平洋戦争で活躍できなかったことから、「大艦巨砲主義の愚行」「時代錯誤の無用の長物」と揶揄するむきもあります。しかし私は、そう単純に言い切れるものではないと考えています。

 大和型戦艦の計画をスタートした昭和9年(1934)当時、海軍の主役はあくまで戦艦でした。第一線の軍用機である九五式戦闘機などの航空機は未だ複葉機であり、戦艦がこれに脅かされるとは誰も考えていません。

 よく、山本五十六連合艦隊司令長官の「戦艦は床の間の飾りみたいなものだ」という言葉が用いられますが、これは「そんなに沢山はいらないよ」という意味であり、山本自身、戦艦大和が就役した時にはすこぶるご機嫌だったと聞きました。また、宇垣纏連合艦隊参謀長は「一大威力を得たり」と認めており、彼らが大和の存在を心強く感じていたのは確かです。

 他国に目を向けても、アメリカは戦時中に八隻の新鋭戦艦を造っており(いずれも大和竣工後の登場)、イギリスに至っては戦後もバンガードという戦艦を竣工させています。大和、武蔵より遅れてできた戦艦は少なくないのです。

 むしろ日本海軍は大和型三番艦を、途中で航空母艦に転換し(空母信濃)、建造が始まっていた四番艦の工事を中止しました。すなわち、日本はいち早く戦艦主力から脱却していたのであり、「大艦巨砲主義」とは的外れの指摘に他ならないのです。もっとも、これは、アメリカには空母も戦艦も建造する力があり、日本海軍には建造能力が無かったためでもありますが。
 

日本人の技術力がもたらした皮肉な運命とは?

 ただし、日本海軍が昭和16年(1941)の開戦後、大和と武蔵を的確に運用できず、活躍の場を与えられなかったのは残念ながら事実です。

 軍事力を整えるにはハードウェアと然るべき運用法の双方が必要不可欠です。しかし、日本海軍にとって誤算だったのは、戦艦を航空機主役の時代にいかに用いるか、その戦略を研究し始めた矢先に戦争が始まったことでした。

 また、当時の海軍には明治時代のように実戦経験を持つ人間はごく僅かであり、戦艦大和、武蔵という「名刀」を使いこなす「名人」はついに現われませんでした。一方のアメリカは戦艦を、島嶼攻撃での上陸前の砲撃や、空母の傍で防空艦として用いるなど有効な活用法を検討し続けており、運用面で日本に先んじていたといわざるをえません。

 ただ、開戦直後の大和竣工は、ある意味で、日本の技術力が招いた結果といえます。そもそも大和の竣工予定は昭和17年(1942)の夏でしたが、日米決戦間近の空気から、海軍は半年ほど工期を縮めて大和を就役させました。それを可能にするだけの現場の力が、日本にはあったのです。

 かくして日本は「虎の子」である大和の存在を後押しに開戦に踏み切るのですが、もしも計画通り、大和が昭和17年夏の竣工で、それまで開戦を待っていたら、どうなっていたか…。おそらく欧州戦線におけるドイツの劣勢が伝わって、ドイツの勝利を前提としていた対米開戦の考えは成り立たず、日本は開戦を躊躇し、また大和型戦艦の運用方法の研究も進んでいたはずです。

 驚異的な工期短縮を実現した現場の力が、大和型戦艦と日本のその後の運命を決定づけたことは、皮肉としか言いようがありません。
 

大和が「戦後」に栄光をもたらした!

 とはいえ、戦艦大和と武蔵を戦時中の活躍のみで評価するのは、極めて短見であると言わざるを得ません。

 戦後僅か10年ほどで、日本は造船量世界一になり、長く造船王国となりますが、そのほとんどは輸出船、つまり、昨日まで戦っていた敵国から注文が殺到していたのです。この事実が、世界中が日本の造船技術を認めていた証拠ではないでしょうか。

 その後日本はいわゆる「高度経済成長期」を迎えて経済大国として劇的な復興を遂げますが、その裏には、実は大和型戦艦の存在がありました。

 建造責任者を務めた元海軍技術大佐・西島亮二などが典型ですが、大和型戦艦建造に携わった技術者たちは、いかに能率よく、より優れたモノをつくるかを、徹底的に突き詰め続けました。資材を発注した段階から戦艦建造は始まっていると考えていたといい、彼らの「モノづくり」へのこだわりと執念の凄まじさが窺えます。

 そんな精神や技術を余すところなく受け継いだのが、高度経済成長を支えた技術者たちでした。西島も、石川島重工業(現在のIHI)社長を務めた土光敏夫をはじめ、多くの人物にその経験を伝え、多大な影響を与えました。

 戦後、日本が「モノづくり大国」として栄光をつかむことができた背景には、大和と武蔵のDNAが確かにあったのです。

 戦艦大和と武蔵が今なお多くの人々に知られるのは、吉田満が著わした『戦艦大和ノ最期』を契機に、その悲劇性に注目が集まった側面もあるでしょう。しかし、この世界最大にして最強の戦艦が語りかけるものは、決して「悲劇」だけではありません。

 大和型戦艦を造り上げた技術力はもちろん、日本を守るという想いや覚悟、そして日本人の魂が凝縮された「結晶」が、大和と武蔵であったのです。

 先の大戦から70年を迎え、戦争を体験された方の多くが鬼籍に入られました。そんな時代だからこそ、この不世出の二隻の戦艦を通じて当時の日本人の姿を振り返るべきではないでしょうか。

著者紹介

戸高一成(とだか・かずしげ)

呉市海事歴史科学館館長

1948年、宮崎県生まれ。多摩美術大学卒。財団法人史料調査会理事、厚生労働省所管「昭和館」図書情報部長などを歴任し、2005年より現職。海軍史研究家。著書に、『海戦からみた日清戦争』(角川書店)ほか多数。

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