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長州男児の肝っ玉・高杉晋作の功山寺挙兵

2015年08月03日 公開
2023年01月16日 更新

『歴史街道』編集部


写真:高杉晋作(国立国会図書館蔵) 他

強烈な思いと時の勢い

晋作は「これでよし」としました。これだけの人数でも、突破口を開くことができれば、局面を変えうる可能性があるからです。が、もとより生還を期してはいません。彼は支援者である白石正一郎の弟・大庭伝七に自分の墓碑銘を託しています。

「故奇兵隊開闢総督高杉晋作則/西海一狂生東行墓/遊撃将軍谷梅之助也」。自分の墓には、そう刻んでほしい、と。まさに松陰の教え「死して不朽の見込みあらば、いつにても死ぬべし」を実践しようとしていたのでしょう。

元治元年12月15日、雪の降る深夜。晋作は率いる部隊とともに、長府の功山寺の山門をくぐります。客殿に三条実美ら五卿が潜居していました。晋作は五卿を前に決起の趣旨を語り、祝い酒を振る舞われたといいます。五卿らは、訳がわからなかったかもしれません。

この時、晋作は26歳。紺糸縅の具足に、桃形の兜を首から背にかけ、玄関外まで見送りに出た五卿らの前で乗馬すると、振り向きざま叫びました。「これより、長州男児の肝っ玉をお目にかけます」。

晋作が号令をかけ、80人は一路、雪の中を下関に向かいました。そして未明に藩の新地会所を襲って占拠し、軍資金や武器弾薬を奪って、萩の俗論党政府に宣戦布告をするのです。さらに晋作は海路、三田尻に赴き、藩の軍艦3隻を奪って下関に戻りました。

この晋作の鮮やかに手並みに、静観を決め込んでいた山県も方針を転換せざるを得なくなり、奇兵隊をはじめ諸隊が続々と晋作のもとに駆けつけて、軍勢が急激に膨らみます。一方、萩政府はこの事態に、野山獄にあった急進派11人を粛清しました。

さらに12月26日、藩の正規軍である諸隊鎮静軍3,800が萩を出立。三方向から進軍を開始します。鎮静軍先鋒隊1200は、萩から下関に通じる赤間関街道を南へ5里の絵堂宿に宿営しました。晋作ら諸隊もこれに応じて北上を開始します。

1月7日未明、諸隊は野戦砲を合図に絵堂の鎮静軍を奇襲。鎮静軍は不意をつかれて慌てふためき、諸隊の小銃の一斉射撃の前に、なすすべもなく別働隊の駐留する一ツ橋まで後退しました。諸隊は一ツ橋方面まで進出し、別働隊の指揮官は戦死。鎮静軍はさらに後退します。

この時の諸隊は、斥候部隊の規模であったようですが、鎮静軍は敗退。同日午後には山県狂介率いる本隊も到着し、諸隊は8日、大田に移動しました。奇兵隊は大田の光明寺に本陣を置きます。

そしてここで重要なのが、諸隊の勝利が近隣の村民の支持を得たことでした。諸隊は庄屋から軍資金と食糧の提供を受け、千人以上の農兵も諸隊に協力することになります。その後も鎮静隊は何度か攻勢を仕掛けますが、一進一退の攻防となりました。

1月16日。諸隊は、新たに参戦した晋作らの遊撃隊を中心に夕刻、大田本陣を出立。18時頃、絵堂から赤村の出口に当たる3方向から、鎮静軍が本陣としていた正岸寺を夜襲しました。

松明をかざして正面から遊撃隊・奇兵隊、搦手から八幡隊ら諸隊が攻撃します。戦いは午前2時頃まで続き、鎮静軍は夜のうちに退却しました。

一方で晋作は、三田尻で奪った軍艦を萩沖に回し、空砲を撃たせます。殷々たる砲声は、萩城下の人々を驚かせるとともに、諸隊の勝利と俗論党の敗北を印象づけました。

これら7日から16日までの戦いを大田・絵堂の戦いと呼び、諸隊の勝利が萩政府内での椋梨ら俗論党の失脚という一大政治転換をもたらすことになります。その後、長州は急進派主導のもと、四境戦争を経て、維新へと突き進むことになりました。

晋作が睨んだ通り、「突破口を開くことができれば、局面を変えうる」展開になったわけですが、その奇跡を呼んだのが、「たとえ自分一人でもやる」という晋作の強烈な思い、気迫であったこと、そして、それが時の勢いを追い風にして、体制を覆してのけたという事実は、私たちに多くのことを語りかけているのかもしれません。

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