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文禄の役・碧蹄館の戦い~戦国の漢たちはなぜ迎撃を決断したのか

2015年08月27日 公開
2019年01月23日 更新

童門冬二(作家)

『歴史街道』2015年9月号「総力特集:碧蹄館の真実」総論より

戦国武将
 

漢城を出て、城外で雌雄を決すべし!

「今敵の多数を聞き一戦を交へずして退かば我国の恥辱を奈何せんや。雌雄を決せんに如しかず」

そんな立花宗茂の言葉に即座に賛意を示したのが、老練なる重鎮・小早川隆景であった。

文禄2年(1593)1月下旬、攻め来る明軍を前に、漢城に集結した日本軍諸将は選択を迫られていた。

籠城か、釜山まで後退か、それとも…。この時、迎撃に向けて男たちの心を一つにしたものとは、何であったのか。
 

籠城か、後退か、迎撃か

 「漢城の守りを固めて籠城するか、釜山まで後退して内地からの援軍を待つか、それとも打って出て、明軍を迎え撃つか…」

 宇喜多秀家、小早川隆景、立花宗茂、黒田長政、加藤光泰、さらに石田三成、大谷吉継、増田長盛らの奉行衆も加わった軍評定で、諸将の意見は割れました。文禄2年(1593)1月下旬(一説に25日)、漢城(現在のソウル)においてのことです。

 天下統一後、明国征服を企図する豊臣秀吉は、李氏朝鮮に対し服属と明遠征の案内役を求めます。そして朝鮮がこれを拒んだことから、文禄元年(1592)4月、一番隊から九番隊まで、15万余りの軍勢で釜山に攻め込みました。いわゆる朝鮮出兵の文禄の役です。

 日本軍は勝利を重ねつつ北上、5月3日には首都漢城が落ち、朝鮮国王宣祖は逃亡。6月15日には小西行長らが平壌を制圧しました。しかし、朝鮮国王の要請で明の援軍が派遣され、7月16日、平壌の奪還を図る祖承訓率いる5000が急襲します。平壌を守る小西らはこれを大いに破り、撃退しますが、主敵である明の国土にまだ一歩も足を踏み入れぬうちに、明軍が早くも駆けつけてきたことは、日本軍に少なからぬ衝撃を与えました。

 日本軍諸将は評定を開き、年内の進撃はとりあえず平壌までとし、軍監の黒田官兵衛は小西に、「平壌から後退し、明軍に備えて漢城の北方に堅固な砦を築くべき」と勧めます。しかし、秀吉の意向に反して明との講和を進めたい小西はこれに従わず、平壌に戻り、明と50日間の休戦協定を締結しました。ところがこれは、明が態勢を整えるための方便でした。翌文禄2年1月6日、講和交渉をよそに李如松率いる4万余りの精兵が朝鮮軍とともに平壌を襲い、小西らは大敗。辛うじて黒田長政の拠る龍泉山城に逃げ込んだのです。

 明軍の反攻に、平壌と漢城間の諸城に詰めていた日本軍諸将はすべて漢城に集結。一方、勢いに乗る李如松は平壌から開城へと進軍し、自信満々で漢城攻略を窺いました。冒頭の「籠城か、後退か、迎撃か」の軍評定は、そんな緊迫した状況下で行なわれていたのです。

 石田・大谷・増田ら奉行衆が籠城策を勧める中、城外での迎撃を決然と主張したのが立花宗茂、小早川隆景らでした。

 「(宗茂は)合戦は吾願ふところなり、我まず先駆せむといふ、小早川左衛門佐隆景も、尤も同心して、先陣せむといふ、爰に於て諸将異義に及ばず」(『加藤光泰貞泰軍功記』)。

 「今敵の多数を聞き一戦を交へずして退かば我国の恥辱を奈何せんや。夫れ城に嬰りて守らば大兵合圍援路四絶焉んぞ久を支えん。兵を城外に出し雌雄を決せんに如かずと。隆景大に之を賛し群議遂に決す。又隆景の推挙により宗茂をして先鋒たらしむ」(『大戦記』〈柳川藩叢書第一集所収〉)。

 ここに、漢城における軍評定は、城外で明軍を迎撃する作戦に決するのです。

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著者紹介

童門冬二(どうもん・ふゆじ)

作家

1927年東京生まれ。東京都職員時代から小説の執筆を始め、’60年に『暗い川が手を叩く』(大和出版)で芥川賞候補。東京都企画調整局長、政策室長等を経て、’79年に退職。以後、執筆活動に専念し、歴史小説を中心に多くの話題作を著す。近江商人関連の著作に、『近江商人魂』『小説中江藤樹』(以上、学陽書房)、『小説蒲生氏郷』(集英社文庫)、『近江商人のビジネス哲学』(サンライズ出版)などがある。

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