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伊達政宗の身長は159.4cmだった!?

2015年10月06日 公開
2023年03月09日 更新

『歴史街道』編集部

少し前の話で恐縮ですが、今年の夏に仙台を訪ねた時の紀行話を書かせていただきたいと思います。

仙台は仕事で何度か訪れたことはありましたが、史跡をゆっくりと巡る機会に恵まれませんでした。今回は、東北三大祭りの一つ、仙台七夕祭りに合わせての訪問で、絢爛豪華な祭りを楽しみながら、伊達政宗公ゆかりの地を巡ることができました。

仙台城(青葉城)と政宗公騎馬像、伊達政宗によって創建された大崎八幡宮、また翌日には松島まで足を伸ばし、政宗が造営に心血を注いだ国宝の瑞巌寺などを訪ねました。それぞれが、政宗と仙台の歴史を今に伝える貴重な史跡の数々で、すっかり“政宗モード”に入ってしまいました。

その中でも、一番印象に残ったのが、政宗の墓所である瑞鳳殿でした。瑞鳳殿は、寛永13年(1636)に70歳で生涯を閉じた政宗が、死の直前に広瀬川が蛇行する間に位置する経ヶ峯の地を自ら訪ねて、この地を自分の墓所にすべしと命じたとされる場所にあります。

経ヶ峯は伊達家の霊域として長年、禁断の地をされてきたため、自然環境が今に残され、霊厳な雰囲気が漂う場所です。

瑞鳳殿は本殿、拝殿、御供所、涅槃門からなる桃山時代の建築様式を伝える豪華絢爛な廟所でした。しかし、太平洋戦争中の仙台空襲によって、残念ながら焼失してしまいました。現在の霊廟は、昭和54年に再建されたもので、規模や装飾ともに、焼失以前の創建当時の姿を甦らせています。

瑞鳳殿と共に、同地に建つ感仙殿(二代藩主忠宗の霊廟)と善応殿(三代藩主綱宗の霊廟)も再建されましたが、それに先立ち、綿密な発掘調査が実施されました。すると、具足、太刀、文箱、眼鏡(水晶製のレンズの老眼鏡)などの副葬品とともに、伊達家三代の完全な遺骨が発見されたのです。

戦国時代の将軍や大名などの遺骨は、歴代徳川将軍家や、石田三成のものとされるものが伝わりますが、保存状態が良好で、来歴が確かなものは、この伊達家のものが唯一とされます。

政宗の遺骨は、棺中に詰められた石灰カルシウムが防腐剤の役割を果たしたため、良好な状態で保存されていたそうです。この石灰には牡蠣の細片が混じっているそうで、仙台名物牡蠣の殻が使われたのかもしれません。

政宗の遺骨を丹念に調査し、容貌を復元した像が、瑞鳳殿の横にある資料館に展示されています。そこに説明されている政宗の容貌の特徴とは…

身長は159.4cmで、ほぼ当時の平均的な身長です。ただし、手足の骨は太く、筋肉付着部分が発達しており、戦国武将として鍛錬された頑強な体格であったようです。

頭蓋骨は大き目で後頭部が張り出し、前額部が膨らんだ前後に長い長頭型に分類され、面長で鼻筋が通った貴族的な顔だったそうです。男前で、頭脳明晰だった…のかも知れません。

左足の外くるぶしに変形したまま癒着した骨折の跡が見つかったそうです。伊達家の記録に、天正17年(1589)に落馬して足を痛めたという記述があり、また脚を骨折したが治療の結果くっついたという記録も残っており、この遺骨が政宗である傍証となりました。

そして、気になるのが、「独眼竜」という異名の由来ともなった“眼”についてですが、調査の結果では、左右の眼窩とも特に損傷は見られなかったそうです。幼少期に片倉小十郎に失明した眼球を斬り取らせたという伝承は、誤りなのかもしれません。

今に伝わる甲冑像や肖像画でも、政宗の両目は備わっているようにされています。生前に、両目をきちんと描くようにと遺言したからとも伝わりますが、両眼備わった状態で片目の視力を失ったというのが、真相だったのかも知れません。

瑞鳳殿には、建物と共に焼失し、再建の際に復元された政宗の木像が安置されています。通常は非公開ですが、命日や特別な日に公開されます。そして、仙台七夕祭りの期間は…特別公開されます! 運よく木像を拝むことができました。確かに、両目がきちんとこちらを見ておられます。

記録によると、政宗臨終の際は、まず西の方角を問い、そちらを向いて両手を合わせ、「御目を見開き」、高々と「やっ」と一声発して息絶えたとされます。その時、政宗の両目は見開かれていたのでしょうか。

“独眼竜”と称された政宗ですが、片目の視力は失っていながらも、眼球を失うことはなかったのかも知れないと、政宗の容貌を思い直した仙台の旅でした(立)

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