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伊達政宗の墓に寄り添う20名の殉死者

2015年12月08日 公開

歴史街道編集部

仙台で伊達政宗の廟所「瑞鳳殿」を訪ねた際、その荘厳にして極彩色に満ちた廟の雰囲気に、思わず息を呑みました。まさに戦国随一の人物にふさわしいオーラを感じました。

感動しながら、ふと視線を廟の脇に移すと、両脇に多くの石塔が建っています。何だろうと思い、設置されていた説明板に目を通すと、政宗の死去に際して後を追って殉死した家臣たちの宝篋印塔〈ほうきょういんとう〉(供養塔)であることがわかりました。

その数、20名。そのうち直臣が15名で、他の5名は殉死した直臣に殉死(又殉死〈またじゅんし〉といいます)したそうです。政宗は死後も多くの家臣(とその家臣)たちに見守られながら、永遠の眠りについているのです。

殉死…「追腹を切る」とも言われます。戦国時代にはさぞや多くの殉死者がいたのだろうと思いがちですが、実は戦国時代にはほとんど例がなく、江戸時代に入ってから一種の風習として広まりました。

もちろん、合戦の場などで戦死した主君の後を追って切腹した武士たちが多くいたことは事実です。しかし、政宗のケースのように病没した主君に殉じることは、家康の四男・松平忠吉に家臣が殉死してからとされます。熊本藩では細川忠利に19人が殉死しています。これは、森鴎外の小説『阿部一族』のモチーフにもなっていますね。

徳川家康に殉死者はいませんでしたが、一説には忠吉に殉死者が出たことで秀忠を叱責したと伝わります。戦国の世を生き抜いてきた家康にとって、戦場以外での個人的な感情からの殉死は、認めるべきものではなかったのでしょう。

ただし、秀忠と家光の代でも、殉死者は見られました。実は、家光は伊達政宗が死去すると、仙台藩邸に使者を遣わして、殉死者が出ないように命じています。しかし、仙台藩の家臣たちが強く殉死を願い出たため、許可されることになったのです。

仙台藩では、二代藩主忠宗にも12名の直臣と4名の陪臣が殉死していますが、三代藩主綱宗の代になると、幕府の殉死禁止令のために殉死者はいなくなりました。代わりに14名の家臣が剃髪し、そのうちの一人が出家をして死後に遺骸が綱宗の廟所・善応殿の脇に葬られたそうです。

ではなぜ、江戸時代に入って殉死が一種の流行のように広まり、そして幕府はなぜ殉死を禁止していったのでしょうか。

史料編纂所教授の山本博文氏の研究によると、殉死者に共通する特徴としては、武家社会における忠義から発生したという見方から、主君との男色関係、わずかな恩寵を受けた下級武士が主君との一体感を得るために殉死するケースなどが挙げられるとされます。

山本氏は「殉死は忠義の心から出るのではなく、体制化しつつあった社会制度や上下秩序を、自らの死によって打ち破る行動であった」と位置付けています。

つまり、下級武士にとって、藩というものは明確な階層秩序の中で出来あがった組織であり、殉死によって、階層を飛び越えて日常は遠い存在である主君と直接つながることのできる手段であったといえるのです。

これは、戦国の遺風でもあった「かぶき者」的な武士像にもつながります。主君への忠義というよりも、自己主張を根底に持った、衝動的な行動として殉死を見ることができるのです。

徳川幕府の為政者にとって、この体制秩序の破壊につながる危険性をはらんだ殉死の流行は、体制の維持においても認めるべきものではありませんでした。

そこで、4代将軍家綱、5代将軍綱吉の文治政治への転換期における治世に、幕府は殉死の禁令へと踏み出します。寛文3年(1665)の武家諸法度により、殉死はご法度となったのです。

この3年後、宇都宮藩主の奥平昌能の死去に際して殉死者が出ると、家禄を削った上で転封という厳しい処分がなされます。これ以降、殉死は影を潜めることとなりました。

殉死は個人的な願望の達成であり、御家の存続に寄与することこそが忠義である…殉死の禁令によって、遺風として残っていた戦国時代が終わり、真の泰平の世が到来したのではないかと感じます。

最後に、家光の治世での殉死の話を一つ。真田信之に仕えた鈴木忠重は、名胡桃城主だった鈴木重則の嫡子でしたが、何度か藩を出奔するなどしながらも、信之に重用されました。忠重はその恩を忘れることなく、終生、信之に忠実に仕えます。

信之の晩年に松代城の築山に二人で登った時、信之が「若い頃なら、この築山を飛び越えられように。死出の山とはこれくらいの高さであろうか」とつぶやくと、忠重はこう答えます。「死出の山がどれほどの高さであろうと、私が手をお引きしましょう」。殉死を約したのです。

信之は万治元年(1568)に93歳で病没。この時の将軍・家光は伊達政宗の時がそうであったように、殉死を禁じようとしていました。その風潮に対して、忠重は信之と生前の約定があるからと書簡で幕府へと許可を願い出ます。幕府からの許可が下りた後、忠重は殉死しました。享年84。墓は信之の墓に寄り添うように建てられました。(立)

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