歴史街道 » 本誌関連記事 » 本能寺の変、その時、真田は…

本能寺の変、その時、真田は…

2016年02月07日 公開
2023年03月09日 更新

『歴史街道』編集部

 

武田旧領の統治と上杉攻め

 

天正10年(1582)3月に武田家が滅亡すると、織田信長は武田旧領を功績のあった者たちに分け与えました。まず武田攻略の先陣を務めた滝川一益には、上野一国及び信州の佐久・小県。滝川は上州箕輪城、次いで厩橋城に入り、「関東御取次役」を務めます。

真田昌幸は上州沼田城、岩櫃城を滝川に差し出し、その麾下に入ったことはドラマでも描かれました。しかし当の滝川は、上野一国よりも信長の茶器(珠光小茄子)が欲しくて悔しがったという話が伝わります。

他に甲斐一国と信州諏訪郡は河尻秀隆(甲府岩窪の館)、川中島4郡は森長可(海津城)、信州伊那郡は毛利長秀(飯田城)に与えました。織田に味方した木曾義昌は所領の木曾郡安堵の上、新たに筑摩・安曇郡が与えられています。

そして徳川家康は駿河一国。ただし駿河のうちには、穴山信君(梅雪)領が含まれます。武田が滅び、信濃・甲斐が織田の所領となったことで、家康にすれば北条氏と争わない限り、所領を増やす手立ては失われました。また、信長にとっての家康の存在価値も微妙になります。


なお織田・徳川に呼応して武田領に攻め込んだ北条氏に対しては、特に何の恩賞もありませんでした。しかも北条の所領もあった上野国は滝川一益のものとなり、さらに何かを織田政権に申し出る際は「御取次役」の滝川を介さなくてはならず、北条にすれば面白くない体制であったでしょう。

いずれにせよ、武田領は解体・再編されて、織田による統治体制が整う一方、信長は次の標的を北に置いていました。すなわち越後の上杉景勝です。

武田勝頼が天目山で自刃した3月11日、北陸では織田軍が上杉方の魚津城を包囲。魚津城は粘り強く抗戦し、景勝自らが魚津城救援に出陣して織田軍と戦いますが、その最中の5月11日、信濃から森長可が越後に侵攻、また上野からも滝川勢が三国峠を越えて、越後を窺いました。

この事態に、上杉景勝は魚津城救援を断念して居城の春日山城に戻り、織田軍の侵攻に備えます。しかし、越後国内では新発田重家が景勝への叛乱を起こしており、もはや上杉家は風前の灯というべき状況に追い込まれていました。

 

本能寺の激震、笑った者、泣いた者

 

6月3日、80余日の籠城戦の末、上杉方の魚津城は、城内の武将がことごとく自刃して落城します。織田軍はこれで、障害なく越後に雪崩れ込むことが可能になりました。しかし、そこにもたらされたのが、本能寺で信長横死の凶報です。

越後に侵攻する寸前であった織田軍は全軍撤退。上杉景勝は辛くも滅亡を免れました。しかし、上杉家は消耗しており、景勝に笑う余裕があったかはわかりません。

越後に侵攻中であった森長可が本能寺の報に接したのは、6月6日頃であったといわれます。森勢は即座に撤退を決め、信長の仇を討つべく上洛を目指しました。これに対し、信濃国衆の春日氏が妨害しようとしますが、森勢は撃破。長可の「鬼武蔵」の異名はこの時についたといわれます。

また一説に森は、伊那の毛利長秀と合流し、毛利を先に上方に向かわせて、自らもそれを追うかたちで脱出したともいいます。いずれにせよ、森と毛利は信濃から離れました。

一方、脱出ではなく、その場に踏みとどまろうとしたのが甲斐の河尻秀隆です。河尻はどさくさに紛れて徳川家康が甲斐を奪おうとしていると睨み、家康が派遣してきた本多信俊を暗殺。これに怒った本多一族らが地侍を焚き付けて一揆を起こし、河尻を討たせたともいわれます。河尻は討死しました。

そして、本能寺の報せを関東の織田諸将の中で最も遅く接したのが、上州の滝川一益だったとされます。6月9日頃のことでした。ドラマでも真田昌幸がすでに知っているのに、滝川がまだ知らない様子が描かれていました。

『関八州古戦録』をはじめとする軍記物では、本能寺の報せを受けた滝川は厩橋城に関東の諸将を集め、信長の死を包み隠さず明かした上、襲ってくるであろう北条軍には滝川勢だけであたるので、皆は所領の守りを固めてほしいと語り、感激した諸将は滝川に協力することを誓ったという感動的な話で描かれます。

しかし、実際は残念ながらそのような事実はなかったようで、滝川は関東の諸将からの信長の安否照会に、「別状ない」と伝えていました。

一刻も早く上方に向かいたい滝川にとって、最大の脅威は小田原北条氏の動向です。その北条氏政・氏直父子が本能寺を知ったのは、6月11日頃のことでした。

一方、上州沼田では、信長の死を知ったかつての沼田城の城将・藤田信吉(用土新左衛門尉)が、沼田城の明け渡しを城将の滝川儀太夫に迫ります。しかし儀太夫は、「この城は真田昌幸から接収したものであり、明け渡す際は真田に返すのが筋である」と拒みました。

怒った藤田は沼田城に攻めかかりますが、滝川一益も援軍に駆けつけて、藤田を追い払いました。そして滝川は、接収していた沼田城、岩櫃城を、昌幸に返却することを決めるのです。昌幸が喜ばないはずがありません。

そんな滝川のもとに北条の大軍が迫り、干戈を交えることになりますが、やがて滝川の上方への脱出を、昌幸が助けることになります(辰)

写真は上杉景勝甲冑レプリカ

歴史街道 購入

2024年4月号

歴史街道 2024年4月号

発売日:2024年03月06日
価格(税込):840円

関連記事

編集部のおすすめ

「歴史街道」3月号●真田昌幸と関東三国志

『歴史街道』編集部

「歴史街道」3月号●鍋島直正と近代化に挑んだ男たち

『歴史街道』編集部

真田昌幸・信繁父子は信長と対面したか

『歴史街道』編集部
×