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若きリーダー・鍋島直正が幕末佐賀で起こした「近代化の奇跡」(前編)

2016年02月26日 公開
2023年10月04日 更新

植松三十里(作家)

日本一の先端技術革新

 反射炉とは耐火レンガの炉で、煙突の頂上まで含めると、高さ15メートルほど。佐賀には伊万里焼など焼物の技術があり、領内の土の質も、焼物師たちが熟知していた。その技術を活かし、珪藻土という白い粘土を用いて耐火レンガを焼いた。

 炉の内部は天井がドーム型で、炭や石炭を燃やす焚口と、鉄材を投入する鋳口とが少し離れている。燃料を燃やした熱がドーム天井に反射して、鉄材を溶かす仕組みであり、そこから反射炉といった。

 それまでの鋳物はこしき炉を用い、鉄材を、真っ赤に燃える炭と混ぜて溶かした。しかし、そうすると鉄に炭素が取り込まれて、もろい鉄しかできない。鉄の鍋釜なら、それでもすんだが、大型大砲には向かなかった。反射炉では鉄材と燃料を離すことで、炭素の問題を解消したのだ。

 そんな理屈がわかっても、1冊の蘭書だけが頼りでは、不明な点は山ほどあったことだろう。開国の前だけに、明治以降のようにお雇い外国人の力を借りるわけにはいかない。何度も試作を繰り返し、そのたびに失敗した記録が残る。

 本島や杉谷など大銃製造方は、とうとう不可能と判断し、切腹して責任を取りたいと願い出た。だが直正は言葉をつくして続行を望み、本島たちも、それを受け入れた。まさに命がけのプロジェクトだったのだ。

 とうとう5度めの試作で鉄が溶け、鉄製大砲が、ようやく形になった。ところが試射で、あっけなく砲身が炸裂。鋳物は、最初に完成品と同寸の木型を作り、それをもとにして砂と粘土で外側の鋳型を作る。そして鋳型の中に、溶けた鉄を流しこむのだ。ただ当初は、砲弾が通過する砲道部分に、中子という鋳型を用いていた。中子と外側の鋳型の隙間に、鉄を流しこんだのだ。だが、そうすると気泡が入りやすくなり、そこから炸裂した。

 それを解消するためには、無垢の大砲型を鋳立て、穴をくりぬく必要があった。くりぬく刃物は刀鍛冶の技術で作ることはできたが、回転させる動力が問題だった。最初は人力で、後には水車を用いたが、それでも3カ月近くを要した。

 西洋では蒸気機関の動力を用い、はるかに早くくりぬく。そのために直正は嘉永5年(1852)、精煉方という新たなプロジェクトチームを立ち上げて、蒸気機関の開発にも着手。いずれは蒸気船や機関車にも用いることも想定した壮大な計画であり、諸藩はもちろん、幕府にも先んじた日本一の先端技術革新だった。

 

ペリー来航、しかし…

 そして嘉永6年(1853)のペリー来航までには、長崎湾口の台場が整備され、反射炉で鋳造した25ポンドや35ポンドの鉄製大型砲を含め、60門もの大砲が据えつけられた。

 浦賀沖にペリー艦隊が来航すると、幕閣の中には、彼らを長崎に回航させて、佐賀藩の台場と一戦を交えさせよと主張した者もいたという。もちろん、ペリーがそんなことに応じるはずもなく、開国勧告の正式文書を幕府側に渡すと、翌年の再来航を予告して出航していった。

 これに備えるために、すぐさま幕府は江戸湾の台場建設に着手。現在のお台場を含め、品川から深川まで11箇所を埋め立てて、砲台場を造る計画だった。

 ここに据える50門の鉄製大砲を、幕府は佐賀藩に発注。これに応じるために佐賀では、築地反射炉の北側にあたる多布施という地に、新たな反射炉を建設。完成した大砲から随時、船で江戸湾に運び、台場に設置した。
だがペリー艦隊は予想よりも早く、品川寄りの数カ所ができた段階で再来航。そのために幕府は強い態度に出られず、アメリカの要求を受け入れて日米和親条約を結んだ。 

この後、幕府は予定の約半分、6カ所を完成させただけで、あとは中止してしまった。もう条約を結んでしまったからには、台場など不要だと考えたのだ。

 台場の建設資金は、江戸の豪商たちに出させていただけに、そんな中途半端なものに大金を出させられたのかと、不満が高まった。ペリーに対する弱腰に、この台場建設中止が重なり、幕府は権威を失墜。佐賀藩としては十二分に責任を果たしたが、支えるべき幕府が力を失っていったのだった。しかし、直正の挑戦は、その後も続いていく。
 

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