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海津城代・春日信達の調略と真田昌幸

2016年02月28日 公開

歴史街道編集部

 

北条氏直の信濃侵攻

天正10年(1582)6月18日、19日の神流川〈かんながわ〉の合戦で滝川一益勢を破った北条氏直軍は、上野国の制圧に乗り出し、北は沼田の手前、西は信越国境、東は厩橋城周辺を除いたあたりまでを押さえます。

ほぼ時を同じくして、真田昌幸も滝川から返還された沼田城や吾妻の岩櫃城付近の勢力回復に努めており、北条は上野の真田領まで手を伸ばすことはせず、むしろ信濃侵攻を急ぎました。

氏直は6月19日、埴科郡の出浦対馬守昌相と小県の室賀兵部正武に、川中島が手に入れば、水内〈みのち〉・更級〈さらしな〉郡は二人に与えることを約束した書状を送っています。調略でした。

ドラマでは軍勢の数を恃む若い北条氏直が、出浦の存在も知らないように描かれていましたが、実際は北条氏照、氏邦といった歴戦の叔父たちが同陣していましたし、氏直自身もそこまで暗愚ではなかったでしょう。氏直はこの時、21歳。

一方、真田昌幸は7月9日に北条氏直のもとに使者を送り、従属を申し入れます。北条軍の先陣が碓氷峠を越える3日前のことです。13日には真田昌幸ら主だった信濃衆13人が氏直に出仕、ドラマで描かれたように昌幸一人遅れたわけではありません。なお、13人の中に高坂の名もあったとされます。

高坂とは海津城代・春日弾正忠信達〈かすがだんじょうのじょうのぶたつ〉(高坂弾正の子)を指すと思われ、そうなると北条が川中島に進んだ時点で、春日は北条に通じていたことになります。春日が上杉景勝に従属したのは6月20日とされますから、1ヵ月も経たぬうちの鞍替えでした。

信州の佐久・小県を押さえた北条氏直は、一方で諏方郡の高嶋城を守る諏訪頼忠も味方につけることに成功しています。実は諏訪頼忠には徳川家康も軍勢を送り従属を求めていましたが、主将の酒井忠次の居丈高な態度に頼忠は態度を硬化し、北条を選んだといわれます。

そして、北条軍が満を持して川中島に進出したのは、一説に7月12日(『上杉家御年譜』)。関東の上野衆が加わった氏直軍は2万を超える大軍であったとされます。一方、海津城に拠る上杉景勝は7000から8000でした。

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