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海津城代・春日信達の調略と真田昌幸

2016年02月28日 公開
2023年03月09日 更新

『歴史街道』編集部

海津城代・春日信達の調略

海津城は松代城の前身で、一説に武田信玄の家臣・山本勘助が築いたとされます。永禄4年(1561)の第四次川中島合戦でも武田軍が拠り、戦いの行方を左右する重要な役割を果たしました。また川中島4郡の支配拠点でもあります。

武田時代に海津城代を務めたのが高坂弾正昌信(春日虎綱)でしたが、昌信が天正6年(1578)に死去すると、次男が城代を引き継ぎます。これが春日信達でした。ちなみに昌信の長男・昌澄は長篠の合戦で討死しています。

さて、春日信達は翌天正7年(1579)に駿河三枚橋城の城代に転じ、海津城代は安倍宗貞に交代。しかし、武田家滅亡に際して春日信達は再び海津城に入りました。そして海津城に織田家の森長可〈もりながよし〉が進駐すると、従属。

ほどなく本能寺の変が起こり、森長可が信濃撤退を図ると、春日信達は他の国衆たちとその妨害に出ました。森長可は春日の息子を人質にして交渉の末、妨害を止めさせますが、納得しない者たちがさらに妨害に出たため、森は深志(松本)に至ると、春日の息子ら人質を見せしめのため殺害します。

息子を失った春日信達は、6月20日、進出してきた上杉景勝に従属、海津城代となりました。当時、真田昌幸も弟・信尹〈のぶただ〉(昌春)とともに上杉に従っていましたが、昌幸はすでに北条に鞍替えする気でいます。

そこで早い段階から信達を北条に寝返らせるべく、昌幸は調略を仕掛けました。実際にそれにあたったのは、ドラマで描かれたように昌幸の弟・信尹だったでしょう。同じ武田旧臣の誼もあってか、信達はこれを承諾。

その内容は、北条軍を迎撃すべく上杉景勝が海津城を出たら、信達が海津城兵を率いて蜂起し、北条軍へ合図を送るので、北条軍と信達軍で上杉勢を前後から挟撃、これを殲滅するというものでした。

この信達の申し出に北条氏直は大いに喜び、信達に知行を与える朱印状を作成して、密かに海津城内の信達に届けようとします。ところがその使者が上杉兵に捕縛され、信達の密約は露見することになりました。信達とその一族は城外で磔に処されます。

一方、密計露見を知らない北条氏直は7月12日、軍を川中島に進めたところ、春日信達の処刑を知り、大いに落胆しました。真田昌幸は「対陣が長期に及べば食糧も不足し、士気も下がるので、速やかに上杉と決戦すべし」と北条氏直に進言しますが、氏直は承知せず、軍を反転させ、甲斐に進出している徳川家康と対決することを決します。

そして真田昌幸に、上杉軍の追撃を防ぐことを命じると、7月19日、氏直は全軍を率いて甲斐へと向かいました。昌幸は上杉軍の追撃を引き受けることになりますが、上杉景勝も国許で内乱が起きていたため。ほどなく越後に兵を引くのです。

春日信達の内通発覚、北条軍の反転南下がドラマで描かれたようにどこまで真田昌幸の謀略であるのかは明確ではありませんが、この一連の動きの主なシナリオを昌幸が描いていた可能性はあるでしょう。そして敵対勢力が信州から一掃されたこの時間を利用し、昌幸は次に備えて上州の岩櫃、沼田諸城の防備を強化していきます(辰)

写真は松代城跡

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