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第一次上田合戦と真田昌幸の戦術

2016年04月03日 公開

歴史街道編集部

みな腰が抜けはて、敵の前に出る者など一人もいない

 

昌幸は上田城の城下も取り込んだ、惣構えの防備を構築します。城下の街路には入れ違いの千鳥掛けの柵を結わせました。ドラマでも再現されていましたが、左右交互に斜めに置かれた柵は、侵入時はさほどでもないのですが、退却するとなると実に進みにくく、敵の慌てたところを背後から襲うことができました。

また二の丸の櫓には大木を釣り置き、本丸に士卒を集結させます。支城の丸子、矢沢、戸石の各城にも兵を入れました。ドラマでは戸石城に信幸を入れて待機させましたが、おそらくそうであったでしょう。問題は人質の信繁が戦いに参加したのかどうかですが、かつては研究者の間で否定的でしたが、最近は参加した可能性もあるという見方も出てきています。

閏8月2日、徳川方は上田城目がけて攻め寄せました。この時、真田の一隊が神川の北方で迎え撃ち、頃合いを見て巧みに退き、敵を城下へと引き入れます。ドラマではこの役を信繁が務めていました。そして徳川勢は大手門を突破して二の丸へと侵入しますが、堀にはばまれて身動きしづらいところに上から大木が降って来て、動揺しているところを鉄砲で狙い撃ちにされます。

『真武内伝』によると、この時、昌幸は家臣を相手に囲碁を打っており、数度の注進にも動かず、戦機の熟すのを待っていたといいます。そして敵の混乱が大きくなってきた頃合いを見て、二の丸門を開き、昌幸自ら追撃に打って出ました。

そして後退する徳川勢を、戸石城から打って出た信幸勢とともに挟撃し、大打撃を与えるのです。そもそも徳川勢は退却中、千鳥掛け柵にかかって思うように進めず、そこを真田の伏兵に襲われて、死傷者が続出していました。そして昌幸・信幸の挟撃で算を乱した敵勢は、神川に追い詰められ、増水した川に流された者も相当いたといいます。

この時の様子を『三河物語』は次のように記します。平岩親吉や鳥居元忠は声をかけても返事もせず、下戸に酒を飲ませたようであり、保科正直などはふるえていて口もきけない。

大久保忠世は弟の彦左衛門に、「こんな奴に知行をやっているのはもったいない。味方はみな腰が抜けはて、敵の前へ出ようという者など一人もいない」と怒ったといいます。

かくして第一次上田合戦は真田昌幸の勝利となりました。この日の戦いで徳川勢は、1300余りが討たれたともいいます。それでも徳川勢はすぐには退却せず、真田の支城の丸子城を攻めますが、これも落とせず、9月下旬には真田領内から兵を退きました。

そしてその2ヵ月後、徳川家では石川数正の出奔という大事件が出来し、もはや上田攻めどころではなくなります。昌幸は天下に聞こえた徳川勢を撃退したことで、その名を一躍馳せ、やがて豊臣秀吉と接近していくことになります(辰)

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