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石田三成はなぜ「嫌われ役」となったのか

2016年06月06日 公開

歴史街道編集部

「三成佞臣論」はこうして生まれた

三成のイメージを悪くしているものに、数々の陰謀に加担したという説があります。たとえば、千利休の切腹、蒲生氏郷の毒殺、関白秀次の切腹などの陰謀の黒幕に三成がいたというものです。これまで小説やドラマなどでもそう描くものも少なくありませんでしたが、果たして事実なのでしょうか。

まず天正19年(1591)の利休の切腹。大河ドラマでも、既得権益を守ろうと秀吉に取り入る利休と、三成の対立が描かれています。従来、利休の切腹や彼の木像が一条戻り橋に晒された事件の裏に三成がいたとされてきました。その根拠は、公家吉田兼見の日記『兼見卿記』に、三成が利休の切腹後、その妻も刑に処した噂があると記しているからです。

しかし利休の妻、宗恩が没したのは、ずっと後年の慶長年間のこと。それだけを見ても、兼見の記述が、「噂」を記したに過ぎないことがわかります。もっともそうした噂が当時、流れたということは、三成が秀吉の命令に忠実に動く人物であると、多くの人に認識されていたことの証ともいえます。

次に文禄4年(1595)の蒲生氏郷毒殺。これは会津92万石の大封を得た氏郷を、秀吉がひそかに警戒していることを受けて、三成が毒殺したといわれるものです。確かに氏郷の死は40歳という若さでの急死であり、毒殺の噂が流れたのはそのためでしょう。

しかし氏郷の死因については、当時の名医・曲直瀬〈まなせ〉道三が「玄朔道三配剤録」に診断結果を病死と記しています。また、そもそも氏郷が発病した頃、三成は文禄の役で朝鮮に出陣しており、国内にいませんでした。さらに、後に三成は多くの蒲生家臣を抱え、彼らは関ケ原で三成のために奮戦しています。もし旧臣たちが三成に毒殺の疑いを抱いていたら、こうはならないでしょう。

そして文禄4年の豊臣秀次の高野山での切腹。従来、実子秀頼が誕生した秀吉が我が子可愛さの余り、関白秀次を追放し、切腹に追い込んだ。そうなるよう讒言したのが、三成だったと語られてきました。しかし、最近では、秀吉は切腹を命じていなかったとする学説も出てきており、そうなると秀次事件が根底から覆ることになります。もちろん、三成が讒言したという証拠はどこにもありません。

こうした三成の「濡れ衣」がなぜ語られるようになったかといえば、江戸幕府の方針と、それによって三成に関する史料の湮滅が図られた可能性があります。江戸時代を通じて、徳川中心史観が浸透し、徳川幕府の正当化のために、関ケ原で家康と戦った西軍の象徴である三成は、「佞臣」に貶められていきました。

すると三成に恩を受けた大名家でも、幕府に睨まれることを怖れて三成に関する史料を湮滅し、さらには三成の実像を伝えない「曲筆」が行なわれた可能性も高いのです。それが江戸時代後期には、「史実」として定着していったのでしょう。

こうした点で、三成の実像は現代に至るまで、なかなか正確に伝わっていないといえるのかもしれません。滋賀県のCMではありませんが、「東軍メガネ」を外さないと見えてこない、三成の姿もありそうです(辰)

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