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千利休切腹と石田三成ら奉行衆

2016年06月26日 公開

歴史街道編集部

 

豊臣秀長と千利休

 

千利休は豊臣秀吉の御茶頭として、秀吉の茶の師匠でした。それと同時に利休は、秀吉の側近の一人として、政治的な役割も担っています。

たとえば大和大納言豊臣秀長は九州の大友宗麟に「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候、御為には悪しき事はこれあるべからず候」と伝えています。

つまり「内々のことは利休に相談せよ、公の事は私秀長に相談せよ」と言っているわけで、大和大納言自らそう語るほど豊臣政権において利休は大きな存在となっていました。

実は豊臣政権において、諸大名と秀吉をつなぐ存在が二つありました。一つは豊臣秀長と千利休という秀吉の側近、もう一つが石田三成や大谷吉継ら奉行衆のグループです。

両者はどちらが主、従ということはなく、並立して存在していたようです。ただ秀長は秀吉の弟で、歴戦の武将でもある補佐役、利休は秀吉の主君・織田信長が重んじていた茶頭であり、三成らとは貫禄の点で大きな差があったのは事実でしょう。

天正19年(1591)1月22日、大和郡山城内において、豊臣秀長が病没します。享年52。秀長は温厚、寛容な人物で、秀吉のよき補佐役として豊臣政権の縁の下の力持ち的な存在でした。

甥の秀次をはじめ、秀吉の血縁者たちからもよく慕われており、もし秀長がもう少し生きていたら、うまく秀吉にブレーキをかけて、秀次の悲劇も朝鮮出兵も起こらなかったのではないか、とはよく言われるところです。

そしてそれは、千利休切腹にも当てはまるのかもしれません。秀長というペアを失ったことで、秀吉と諸大名をつないでいた利休と、石田三成ら奉行衆とのパワーバランスが狂ってしまったのではないか。もっといえば、奉行衆にとって、かねがね目障りだった側近・利休を、この際、取り除こうという動きになったのではなかったか。

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