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常に祭りの真ん中にいた、関白秀吉

2016年07月04日 公開
2023年03月09日 更新

『歴史街道』編集部

 

なぜ秀吉は将軍ではなく、関白を選んだのか

 

昨晩のドラマでは、秀吉が関白職を甥の秀次に譲り、自分は太閤と称されることになるという場面がありました。それにしても秀吉はなぜ、後の徳川家康のように征夷大将軍に就任する道を選ばず、関白を選んだのでしょうか?

『義昭興廃記』には次のような内容が記されています。「天正13年(1585)、秀吉は足利義昭の養子となって、征夷大将軍の職に就こうと望むが、義昭の許しを得ることができなかった。それどころか義昭は、卑賎の者を子とすることは、後代の嘲〈そし〉りとなるので叶えることはできないといった。秀吉は激しく立腹し、結局、関白職に就いた」。

秀吉は当初、征夷大将軍職を得て、その支配の正当性を獲得しようとしたところ、家柄の問題で足利義昭が養子を拒み、それが叶わなかったという話で、これまで長く事実として信じられてきました。ところが、実際には裏付けとなる一次史料は存在せず、この話は最近では虚構と見られています。

むしろ秀吉は最初から、武家を統べる将軍職ではなく、公家をも含めた頂点ともいうべき関白職を求めていたと見る方が自然のようです。

もともと10世紀頃より、朝廷では、天皇が幼少の時には摂政を、成長してからは関白を置くことが慣例になっていて、関白は天皇を補佐する立場にありました。

そして鎌倉時代以降、関白職は五摂家と呼ばれる近衛、九条、二条、一条、鷹司家が持ち回りで務めるのがならわしであったのです。ところが、それを崩したのが秀吉でした。

天正13年、秀吉はすでに正二位・内大臣の地位を得ており、次に右大臣へと進むのが順当でした。ところが秀吉は、織田信長が討たれた前例があるので、右大臣は不吉である。左大臣に任官してほしいと働きかけるのです。左大臣の方が高位でした。

実は当時、五摂家の中で次の関白の座をめぐってもめており、さらに秀吉の左大臣を認めるとなると、ますます五摂家の持ち回りのバランスが崩れることになりました。そしてこの問題の収拾策として菊亭晴季が提案したのが、一時的に秀吉を関白にするという意外なものだったのです。もちろんその背後には秀吉の周到な根回しがあったでしょう。

とはいえ、卑賎の者である秀吉を関白に就かせるわけにはいかない、という声は当然ありました。そこで秀吉は近衛信輔の父・前久〈さきひさ〉と取引し、自分が関白になったら、その次は近衛信輔に関白を譲ることを条件に、前久の猶子〈ゆうし〉(仮の親子関係)となるのです。

かくして秀吉は天正13年7月、晴れて関白に就任。翌年には京都に聚楽弟を築くとともに、太政大臣に就任して、「豊臣」姓を下賜されます。豊臣家は摂関家とされ、武家の中で唯一、関白に任官される家柄となります。

さらに秀吉は後陽成天皇に聚楽弟への行幸を仰ぐと、諸大名に天皇と自分への忠誠を誓わせました。当然、そこには諸大名だけでなく、公家たちも支配下に置く意味合いが含まれていたはずです。

とはいえ、近衛信輔にすれば、秀吉と父の約束通り、次の関白は自分であると考えていたでしょう。しかし、秀吉が関白を譲ったのは、ドラマで描かれた通り、甥の秀次でした。つまりこの時点で秀吉は、五摂家との約束を反故にしても誰も文句を言えないほどの力を得ていたということなのでしょう。

にぎやかに祭りをプロモートし、皆を楽しませる陽気な秀吉と、公家たちの勢力争いを巧みに利用し、ついには彼らと諸大名を制する地位を確保する抜け目のない秀吉。実はこれらは表裏一体であり、良くも悪くも背景のない身ながら独力で天下人にのぼりつめた男の凄みを感じさせます。

さらに秀吉没後も、豊臣家が摂関家であることは変わらず、家康が征夷大将軍に就任しても、家格的には豊臣家が徳川家の上でした。もし秀頼が関白に就任すれば、徳川将軍家はその風下に立たされかねず、家康の大坂の陣の狙いは、ここに見出せるのかもしれません(辰)

 

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