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島津豊久「らしさ」を探る!

2018年09月18日 公開

歴史街道編集部

烏頭坂
現在の烏頭坂(岐阜県大垣市)
関ヶ原合戦時で島津豊久が激戦の末、東軍を食い止めた地。
 

島津豊久は「捨てがまり」だけじゃない

島津豊久という武将を、ご存知でしょうか? 人気漫画「ドリフターズ」の主人公として名前を知ったという方も多いかもしれません。

戦国の薩摩といえば、義久、義弘、歳久、家久――いわゆる島津四兄弟がよく知られています。彼らの時代に、島津家は、薩摩半島の一部の領主から、南九州の覇者、さらには九州全体の覇権を争うほどの巨大勢力にまで成長しました。豊久は、その家久の息子で、四兄弟の「次の世代」当たります。

戦国時代も終わりに向かう中で、戦で采配を振るう場面は多くなかった豊久。しかし彼は、その散り様の見事さで、歴史に深く名を刻んでいます。

慶長5年(1600)、関ケ原。
西軍方についた島津は、合戦後、徳川勢に追われる身となります。
関ケ原を抜けて何とか薩摩まで帰らなければ、と考えた島津は「敵中突破」を敢行します。
あえて敵のど真ん中にぶつかり、敵勢の壁を正面から突破して逃げ道を拓こうというのです。

決死の作戦に成功した島津勢でしたが、なお追いすがる徳川勢。
そこで豊久は、せめて島津家総大将・義弘だけでも国許に逃がすため、敵前に立ちはだかることを決断します。
自分の身を捨ててでも、総大将を生かす。

それが、「島津家にとって」の「勝利」だ――。

このWeb連載では、島津豊久の実像に迫ります。

※歴史街道「島津豊久」特集号はこちら



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