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島津豊久は、なぜ関ケ原で石田三成に非協力的だったのか

2016年10月09日 公開

歴史街道編集部

夜襲策進言の有無と、関ケ原での島津の思惑

『落穂集』に載る夜襲策の信憑性については、今後の研究をまつことにしたいと思います。ここでは試みに、関ケ原での島津の動向について、夜襲策を退けられていた場合と、そもそも夜襲策を進言していなかった場合の二つのケースに分けて、私の独断も交えて眺めてみましょう。
 

夜襲策を退けられていた場合

そもそも島津はなぜ、夜襲策を進言したのか。まずは百戦錬磨の義弘・豊久が見抜いた戦いの勘所のようなものがあったのでしょう。今のタイミングで奇襲をかければ、応戦準備の整っていない敵は、必ず算を乱す、と。

もう一つは、島津の手勢が少ないこともあったのではないでしょうか。嶋左近らは西軍全体では、東軍の数を凌ぐという言い方をしたといいますが、島津だけを見れば、手勢は1,500程度。平地で正面衝突する大会戦で、島津が活躍できる場面はあまりないでしょう。

少数の手勢で目覚ましい戦果を上げるとすれば、奇襲作戦です。島津は戦国最強とも謳われた誇りを賭けて、その力を夜襲で存分に発揮し、自分たちの武威を示そうとしたのではないか。だからこそ島津義弘は、夜襲の先陣を務めると自ら申し出たと考えられるのです。

ところが、三成主従はにべもなく却下してしまった。それは島津の活躍の場が封じられたことを意味します。誇り高き武人である薩摩武士にとっては、我慢できないことでした。

武士の誇りを斟酌できない三成に、これ以上、付き合う気はない。また、そんな三成のために少ない手勢を失うことを覚悟して、関ケ原で積極的な戦いを行なうことなど馬鹿らしい。義弘はともかく、三成に何の恩義もない豊久がそう考えても不思議ではないでしょう。
 

夜襲策進言はなかった場合

一方、関ケ原の西軍布陣がどのようにして決められたのかはよくわかりませんが、島津隊は笹尾山の石田隊のすぐ隣に布陣しています。三成に対し、不快感を抱いていたら、わざわざ隣に布陣するものであろうか、という気もします。

もちろん、夜襲策進言却下がなければ、島津は三成に何も含むところはないわけですから、隣に布陣してもおかしくはありません。しかし手勢の少なさから、積極的な攻勢に出るのは難しかったでしょう。前進を促す八十島に、生返事をせざるを得なかったのはそのためではないでしょうか。

そして督戦に来た三成に対する「本日はめいめい勝手に戦うものと心得ており申す」という豊久の台詞も、「この手勢で闇雲に前進すれば、包囲殲滅されることぐらいわかるであろう。我々は自分たちの主将を守るべく、最善の戦いを尽くすのみなのだ」という意味にも解釈できます。

もし、三成が島津勢の精強さを重んじて、乾坤一擲の場面に投入する最終兵器として温存する戦法を取っていたならば、あるいは義弘・豊久以下、島津勢も意気に感じ、ここぞという場面で凄まじい戦いを見せたかもしれません。しかし、実際の関ケ原でそれが発揮されるのは、西軍瓦解後の敵中突破においてでした。

ついでに、もう一つ。もし、夜襲が実行されていたら、その場で決着はつかずとも、翌日の決戦は数日延びたでしょう。そうなれば、大津城を攻略した立花・毛利勢が西軍に合流することになります。闘志溢れる立花・毛利の合流は、南宮山や松尾山諸将の座視を許さない状況を生んだのかもしれません。皆さんは、どのように考えられるでしょうか(辰)

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