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島津の退き口~島津豊久、運命の烏頭坂

2016年10月10日 公開
2023年03月09日 更新

『歴史街道』編集部

運命の烏頭坂

東軍諸隊が追いすがる中、島津隊は敵を蹴散らし、数を減らしながらも、伊勢街道を目指しました。ここから先は史料によって諸説あり、出来事が前後している可能性があります。

本多忠勝隊が猛追をかけると、島津隊の中から後尾の十人ほどが反転、全員が鉄砲で迎撃しました。この戦法を薩摩では「捨てがまり」と呼びます。本隊が逃げる時間を稼ぐべく、殿軍が全員死ぬまで敵と戦い、これを食い止めるという恐るべき戦法でした。本多忠勝はこの時、愛馬・三国黒が撃たれ、地に投げ出されています。

しかし、それでも東軍は追撃の手を緩めません。たまらず義弘の周囲が「如何〈いかが〉なさせらるべきか(いかがいたしましょうや)」と問うと、義弘が応える前に家老の長寿院淳盛が「合戦なさるべき衆はそれがしに御付き候え(戦おうという者は、わしについて来い)」と叫び、馬を返します。家老自らの「捨てがまり」でした。

「御大将、おそれながら陣羽織をお貸しくだされ」。義弘は長寿院が自分の身代わりとなろうとしていることを察し、目を潤ませながら羽織を与えます。長寿院は石田三成から与えられた扇をひらひらさせて軍勢をまとめると、「島津兵庫頭、死に狂いなり」と叫び、敵に三度突撃をかけた末に討死しました(「井上主膳覚書」)。

その後、島津隊は散り散りになり、島津豊久は義弘とはぐれてしまいます。同じく義弘とはぐれた帖佐〈ちょうさ〉彦左衛門が豊久に、「殿様はいずれに」と問うと、豊久は「わからぬ」と涙を流し、「如何にもならせたまふらん(どうなさっているのだろう)」と案じました(「帖佐彦左衛門覚書」)。

幸い、ほどなく豊久らは義弘と合流することができました。ところが義弘は、これ以上、退却するのは無理と観念し、討死する覚悟を固めています。これを説得したのが豊久でした。「殿は御家の浮沈を担う大切なお体、必ずや落ち延びてくだされ」と何度も諌めた末、自ら殿軍を務める決断を下すのです。

この豊久が馬を返し、敵に向かった場所が烏頭坂〈うとうざか〉。現在、豊久の顕彰碑の建つあたりといわれます。豊久は一説に13人で、迫りくる井伊直政・松平忠吉隊の前に立ちはだかりました。豊久の「捨てがまり」です。

豊久の最期の様子はよくわかりません。一説に複数の槍で突き上げられ、宙を三度舞い、猩々緋〈しょうじょうひ〉の陣羽織がぼろぼろになったという伝承もあります。一方で、追撃をかけた井伊直政も、また松平忠吉も負傷して、追撃を断念したともいわれます。

いずれにせよ、豊久をはじめとする島津隊の男たちの命を捨てた「捨てがまり」が、島津義弘を救いました。そして、いざとなればここまでの奮戦を見せる薩摩武士に、徳川家康はじめ諸将は、改めて畏怖の念を覚えたことでしょう。

家康が関ケ原後、島津を処罰できなかったのも、豊久らの奮戦を見せられていたからでした。薩摩に下手に手出しをすれば、徳川は思わぬ大火傷をする…。家康にすれば島津を滅ぼさないことは苦渋の決断であったかもしれませんが、結果的にそれが幕末まで続く雄藩・薩摩藩の礎になったわけで、その源流は豊久ら戦国の薩摩武士にあったといえそうです(辰)

参考文献:山本博文『島津義弘の賭け』他

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