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毛利勝永の大坂入城~背中を押した妻

2016年10月30日 公開
2023年03月31日 更新

『歴史街道』編集部

大坂入城。背中を押した妻

山内家から1000石の捨扶持をあてがわれた毛利父子は、勝信は高知城内に、勝永は郊外の久万〈くま〉に居を構えて、静かに暮らしました。かつての家臣が慕ってやってくると、山内家に頼んで仕官の口をきいたりもしていたようです。

やがて正室が没し、慶長16年(1611)には父・勝信も世を去ると、勝永はいよいよ茶事などに精を出し、世捨て人の生活を続けます。

しかし、それは山内家の監視を意識してのことで、実は茶器購入の名目で家臣を上方に送っては世情を探り、また専用の関船を浦戸湾に浮かべていました。もし豊臣家に災いが降りかかる時は、土佐を脱出して馳せ参じる心づもりであったのです。

そして慶長19年(1614)、ついに豊臣家は徳川幕府と手切れとなり、山内家当主の忠義は、幕府軍に加わるべく、海路、上方に向かいます。その際、忠義は留守居役の山内康豊(一豊の弟で、忠義の実父)に、勝永の監視を託していきました。豊臣家から勝永の許に密使が訪れたのは、その前後のことです。

勝永はすぐにでも馳せ参じたいところでしたが、ためらう事情がありました。自分は脱出したとしても、後に残る妻子(妻は側室か?)が、山内家にどんなむごい扱いをされるかわからない、ということです。

勝永は悩んだ末、妻に思いを打ち明けます。「わしは今度こそ先年の汚名をそそぐためにも、豊臣家をお助けしたい。なれどわしが行けば、そこもとらに災いが及ぶのは必定。それが気掛かりでならぬ」。すると妻は笑って言いました。

「なんと情けなきお言葉か。およそ大丈夫たる者が、妻子を案じて武名を汚すなど、あってはならぬことにございましょう。夫に従うは妻の道。私どものことは、ご案じ召されますな。万一、殿が討死されるようなことがあれば、私も海に身を投げて、お後をお慕いするまででございます」。勝永は妻の凛然とした姿に感極まり、泣きながらも喜んで、脱出を決意しました。

勝永は康豊の許に赴きます。「実はわしは殿(忠義)とは若き頃より義兄弟の契りを結んでおり、大事の際には互いに助け合う約束をいたしております。さればこの度の殿のご出陣を座視するわけにはまいりませぬ。いくばくかでもお役に立つべく、殿のご陣に馳せ参じるわけにはまいりませぬか。愚息(長男の勝家)とわが妻子、わが家累代の家宝をすべて質として置いてまいります。それがし討死の折は、家宝は倅どもにお渡しくだされたく」。

勝永の言葉に康豊は見事にのせられ、勝永が忠義の陣に向かうことを認めました。やがて勝永が軍備を整えて、浦戸湾を出ようとするところに駆け込んできたのが長男勝家で、勝永は勝家も連れて大坂城へと向かうのです。

勝永がまんまと脱出したことを知った山内忠義は怒り、勝永の妻子を捕らえるとともに、徳川家康へ報告し、妻子の処分について問い合わせました。すると家康は「これこそ、真の武士たる者の志というべきであろう。妻子を罰することまかりならぬ」と命じ、やむなく忠義は妻子を城内に引き取って、厚遇することになります。

真田信繁の脱出の報せを受けた時とは、家康の対応が随分、違うものです。いずれにせよ、後顧の憂いのなくなった毛利勝永は、大坂城の五武将の一人として、徳川勢に挑んでいくのです。

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