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『葉隠』の山本常朝は、元禄赤穂事件をどう見たのか

2016年11月21日 公開
2018年12月14日 更新

藤井祐介(佐賀県立佐賀城本丸歴史館学芸員)


歌川広重「義士仇討之図」(赤穂市立歴史博物館蔵)
 

  徳川家康が開いた江戸幕府は、三代将軍家光の治世には将軍権力を確立したと言われる。「武断政治」とも称される、幕府の強大な軍事力を背景とした大名統制の結果であった。その後、島原の乱などを経て日本に泰平の世が訪れると、武威よりも忠孝を重んじる「文治政治」が展開されることになる。大名に対する軍役は縮減し、武士は本来の戦闘者としての生き方を転換する必要に迫られた。

 そうした中、18世紀初頭に、武士の《生き様》を問い直すかたちで誕生したと言えるのが、「赤穂事件」と『葉隠〈はがくれ〉』であった。主君への忠義を貫き、幕府の法を犯してまでも実力行使に及んだ赤穂浪士。忘れ去られようとしていた御家の歴史と、その正統性を思い出させ、「鍋島侍」の奉公の極意を説いた『葉隠』。いずれも、泰平の世に葛藤しながら生きる武士たちを奮い立たせるものであった。
 

『葉隠』の成立と鍋島侍の奉公

 元禄14年(1701)3月14日、江戸城松の廊下において、赤穂藩主浅野内匠頭長矩〈あさのたくみのかみながのり〉が、高家〈こうけ〉筆頭吉良上野介義央〈きらこうずけのすけよしひさ〉へ刃傷〈にんじょう〉に及ぶ事件が起きた。いわゆる「赤穂事件」の発端である。

 その1年ほど前、佐賀藩では二代藩主・鍋島光茂が亡くなっていた。この光茂に仕えていたのが、『葉隠』の口述者である山本神右衛門常朝〈やまもとじんえもんつねとも(じょうちょう)〉である。

 常朝は、光茂に殉死する覚悟であった。しかし寛文元年(1661)、光茂が幕府に先んじて殉死を禁じていたため、叶わなかったのである。そこで剃髪し、黒土原〈くろつちばる〉の朝陽軒〈ちょうようけん〉に隠居して亡き主君の菩提を弔〈とむら〉い続けた。そんな常朝のもとを訪れたのが、役職を免じられ自己修養の必要を感じていた田代又左衛門陣基〈たしろまたざえもんつらもと〉であった。宝永7年(1710)のことである。

 常朝は自ら仕えた光茂の治世を振り返り、跡を継いだ三代藩主綱茂の治世に眼を転じたとき、泰平の世における文治主義を基調とした新施策が「仕〈し〉そこなひ」に映った。

 そして、御家の理想は藩祖直茂・初代勝茂の御代〈みよ〉であり、龍造寺〈りゅうぞうじ〉家から鍋島家への《御家交代》を成し遂げた直茂・勝茂の「御苦労」を忘れず、その正統性を念頭に置くべきだと思い至る。これこそ御家の歴史=「国学〈こくがく〉」を踏まえて仕える「鍋島侍」のあるべき姿であり、「御家来としては、国学心懸〈こころが〉くべき事なり」と『葉隠』冒頭に記される所以であった。その上で「奉公の至極」とは何かを、常朝は陣基に語ったのである。そして陣基が編纂し、享保元年(1716)に成立したのが『葉隠』であった。
 

「暇乞状〈いとまごいじょう〉」にみる赤穂浪士の忠孝

 江戸城での刃傷事件により、赤穂藩は改易〈かいえき〉となった。筆頭家老の大石内蔵助良雄〈おおいしくらのすけよしたか〉を中心とする赤穂浪士たちは、主君浅野内匠頭の仇である吉良上野介を討つことを決める。松の廊下で吉良を討ち果たそうとした内匠頭の存念を継いで、忠義を尽くすべく、生きて帰らない覚悟を定めるのであった。しかし「死」を前提とした討入りは、親に先立つ「不孝」を生じるという問題をはらんでいた。武士として重んじるべき忠孝の一方が果たせない。

 では、彼らはいかにして忠と孝を両立させたのか。親兄弟などへ別れを記した浪士たちの「暇乞状〈いとまごいじょう〉」に、その論理を見出すことができる。

 例えば岡野金右衛門〈おかのきんえもん〉は母に宛てて、主人のために命を捨てること(=忠義を尽くすこと)が両親への奉公(=孝行)になると記す(「〔元禄15年〕12月4日付母宛岡野金右衛門書状」個人蔵)。大高源五〈おおたかげんご〉も「御家の恥辱〈ちじょく〉」を雪〈すす〉ぎたい一心であり、「侍の道」を立て「忠のために命を捨てる」ことで、「先祖の名をも顕〈あらわ〉す」(=孝行)ことになると述べる(「元禄15年9月5日付母宛大高源五書状」正福寺蔵)。

 早水藤左衛門〈はやみとうざえもん〉は、息子が先立つことを嘆く父親を前にして、忠義を立てるべく突き進むのは「孝之道」に欠けているように見えるが、「父之存念」に従って武を尽くした結果であり、孝も立つと考えた(「〔元禄15年〕10月7日付山口弥右衛門〈やまぐちやえもん〉宛曽我金助〈そがきんすけ〉(早水藤左衛門)書状」赤穂市立歴史博物館蔵)。

 すなわち赤穂浪士の討入りは、主君へ忠節を尽くすことが親・先祖への孝行になるという、《忠孝一体》の考え方であった。ただし究極的には、討入りによって生じる不孝は、「心外」ながらどうすることもできないと、忠が孝に優先するという側面も看取〈かんしゅ〉される。

 実は山本常朝にも、こうした考え方が見出せる。常朝が娘婿に与えた『愚見集〈ぐけんしゅう〉(佐賀県立博物館蔵)では、「忠孝といへは二ツノやうなれとも、主ニ忠節を尽スが則〈すなわち〉親ニ孝行也、然〈しかれ〉ハ忠一ツニ極〈きわま〉りたり」と説かれる。忠孝一体の思考であるが、「忠一ツニ極りたり」とあるように、孝が忠に収斂〈しゅうれん〉されるとの考え方であった。

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