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第六潜水艇遭難~教科書にも載った佐久間勉艇長の遺書

2017年04月15日 公開

歴史街道編集部


「佐久間大尉生誕地」碑。揮毫は東郷平八郎(福井県若狭町)

 

今日は何の日 明治43年4月15日

第六潜水艇が遭難、乗組員14人が殉職

明治43年(1910)4月15日、第六潜水艇が遭難し、乗組員14人が殉職しました。訓練中の事故で、佐久間勉艇長の遺書で知られます。佐久間勉艇長は当時、32歳の海軍大尉。福井県三方郡八村(現在の若狭町)の出身で、海軍兵学校29期。同期に米内光政がいます。

日露戦争の日本海海戦では、海軍少尉として巡洋艦笠置に乗って戦いました。その後、水雷術練習所の学生を経て、第四号潜水艇長、第一艦隊参謀、駆逐艦春風艦長、巡洋艦対馬分隊長などを歴任して、明治41年(1908)、第六潜水艇隊の艇長を命ぜられます。

明治43年4月15日、第六潜水艇はガソリン潜行実験の訓練を行なうため、岩国から広島湾に移動しました。この訓練はガソリンエンジンの煙突を海面上に突き出して潜航運転するものです。

訓練開始からしばらく経った午前10時45分頃、何らかの事情で煙突が海面に出る高さよりも深く艇が潜航したため浸水が発生、しかも閉鎖機が故障していたため手動で閉鎖するうちに、17m下の海底に着低しました。潜水艇母艦の見張り員はすぐには異常に気づかず、救難作業が遅れた末に引き揚げられたのは、翌日(翌々日とも)です。

海軍関係者は、乗組員が我先に出口を争う悲惨な姿で落命していることを予想していましたが、驚くべきことにハッチを開けると、乗組員14人のうち12人はきちんと所定の配置についたまま息絶えていました。また所定の位置にいなかった2人は、ガソリンパイプの破損箇所で死んでおり、明らかに最後まで修理にあたっていたのです。

つまり14人の乗組員は、最後の瞬間まで自分の任務をまっとうして死んでいたことが明らかでした。さらに佐久間艇長は、最後の瞬間まで事故の原因と乗組員遺族への配慮を求める遺書を書き残しており、その見事な姿勢は日本のみならず諸外国をも感動させました。

以下、その遺書を紹介します。

「小官の不注意により陛下の艇を沈め部下を殺す、誠に申し訳なし、されど艇員一同、死に至るまで皆よくその職を守り、沈着に事を処せり、我れ等は国家のため職に倒れ死といえども、ただただ遺憾とする所は、天下の士はこの誤りをもって将来潜水艇の発展に打撃を与うるに至らざるやを憂うるにあり」

「願わくば諸君益々勉励もってこの誤解なく、将来潜水艇の発展研究に全力を尽くされん事を。さすれば我れ等一つも遺憾とするところなし」

「沈没の原因。ガソリン潜航の際、過度探入せしため、スルイスバルブを締めんとせしも、途中チエン切れ、よって手にて之を閉めたるも後れ、後部に満水せり。約二十五度の傾斜にて沈降せり」

「沈据後の状況。一、傾斜約仰角十三度位 一、配電盤つかりたるため電灯消え、電纜(でんらん、ケーブルのこと)燃え悪ガスを発生、呼吸に困難を感ぜり。十四日午前十時頃沈没す、この悪ガスの下に手動ポンプにて排水につとむ」

「一、沈下と共にメインタンクを排水せり。灯り消えゲージ見えざるども、メインタンクは排水し終われるものと認む」

「電流は全く使用するにあたわず、電液は漏れるも少々、海水は入らず、クロリンガス発生せず、残気は五百ポンド位なり。ただただ頼むところは、手動ポンプあるのみ。ツリムは安全のためヨビ浮量六百、モーターの時は二百位とせり。右十一時四十五分、司令塔の灯りにて記す」

「溢入の水に侵され、乗員大部衣湿ふ寒冷を感ず、余は常に潜水艇員は沈着細心の注意を要すると共に大胆に行動せざれば、その発展を望むべからず。細心の余り萎縮せざらん事を戒めたり。世の人はこの失敗を以てあるいは嘲笑するものあらん、されど我は前言の誤まりなきを確信す」

「一、司令塔の深度は五十二を示し、排水に努めども十二時までは底止して動かず、この辺深度は十尋(ひろ)位なれば、正しきものならん 一、潜水艇員士卒は、抜群中の抜群者より採用するを要す。かかるときに困る故、幸い本艇員は皆良くその職を尽くせり、満足に思ふ」

「我れは常に家を出ずれば死を期す、されば遺言状は既に『カラサキ』引き出しの中にあり。(これ但し私事に関する事を言う必要なし、田口浅見兄よ、之を愚父に致されよ)」

「公遺言 謹んで陛下に申す。我が部下の遺族をして窮する者無からしめ給わらん事を、我が念頭に懸かるもの、これあるのみ。右の諸君によろしく。一、斎藤大臣 一、島村中将 一、藤井中佐 一、名和少尉 一、山下少将 一、成田少将」 「(気圧たかまり鼓膜破らるる如き感あり)一、小栗大佐 一、井出大佐 一、松村中佐(純一) 一、松村大佐(竜) 一、松村少佐(菊)(小生の兄なり)一、船越大佐、一、成田綱太郎先生 一、生田小金次先生」

「十二時三十分、呼吸非常に苦しい。ガソリンをブローアウトせししつもりなれども、ガソリンにようた。一、中野大佐 十二時四十分なり ……」

事故原因の分析や潜水艇の将来、さらに乗組員の遺族までを慮ったこの遺書は、海軍関係者のみならず、多くの人の心を揺さぶりました。 国内では修身の教科書に取り上げられ、アメリカではセオドア・ルーズベルトによって国立図書館の前に遺言を刻んだ銅板が設置されました。またイギリスの王室海軍潜水史料館には今も佐久間と第六潜水艇が説明されています。

最後の最後まで自分の職責を果たそうとした14人の乗組員。彼らの姿勢が現代に 語りかけるものは大きいのではないでしょうか。 

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