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相馬大作事件~積年の恨み!南部のサムライが津軽のお殿様に果たし状

2017年04月23日 公開
2019年03月27日 更新

4月23日 This Day in History

今日は何の日 文政4年4月23日

盛岡藩士・下斗米秀之進が津軽藩主・津軽寧親の暗殺を計画

文政4年4月23日(1821年5月24日)、相馬大作事件が起こりました。津軽藩主暗殺未遂事件として知られ、事件は講談にもなりましたが、どのようなものだったのでしょうか。

南部藩(盛岡藩)と弘前藩は仲が悪かったことで知られます。その発端は弘前藩の祖・津軽為信(大浦為信)にありました。為信は南部氏の一族で南部信直に臣従していましたが、豊臣秀吉が全国の大名に服従を呼びかけた時、主君に先駆けて秀吉に謁見し、その際に津軽地方、外ヶ浦地方などを所領とする独立大名として認められたのです。南部氏にすれば、家臣に裏切られ所領を掠め取られたに等しく、以来、盛岡藩主・南部氏は、弘前藩主・津軽氏に遺恨を抱き続けました。

正徳4年(1714)には両藩の間で境界紛争が起こり、この時も盛岡藩には不満の残る裁定が幕府より下っています。 そして事件の前年にあたる文政3年(1820)、盛岡藩主・南部利敬が39歳で病没。その死は一説に、それまで官位で南部氏よりも下だった津軽氏が、北方警備の功を認められて南部氏と同じ従四位に叙任したことに憤り、悶死したともいわれます。さらに石高の見直しが行なわれて、弘前藩はそれまでの表高7万石から10万石となって、8万石の盛岡藩よりも大藩となりました。これも南部氏にすれば癪にさわったでしょう。しかも南部利敬の跡を継いだ養子の利用(としもち)はまだ14歳で、当然ながら無位無官です。弘前藩に差をつけられる一方でした。

そうした中での文政4年、盛岡藩士の下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)は、主家の積年の恨みを晴らそうと、弘前藩主・津軽寧親(やすちか)になんと果たし状を送り、辞官隠居を勧告します。そしてそれを拒絶するのであれば、「怨みを報ず」と暗殺を予告しました。秀之進はこの時、33歳。20歳の時に江戸に出て、兵学者、武芸者として名高い平山行蔵に入門、師範代を務めるまでに腕を上げます。その後、父が病を得たため帰郷し、文政元年(1818)に私塾・兵聖閣を開設。一説に200人もの門人を集めました。

そんな下斗米が送った果たし状ですが、もちろん大名がこれに応じるはずもありません。すると下斗米は予告通り暗殺を実行すべく、参勤交代から国許に帰る津軽寧親一行を秋田藩領内で待ち構えます。秀之進は洋式兵学を活かして紙製の大筒を用意しました。紙の大砲なんて、と思われるかもしれませんが、大砲は金属製とは限らず、木砲や紙砲も確かに存在し、ある程度の威力はあったようです。もちろん何発も撃てるはずはなく、紙製であれば一発撃って終わりでしょう。

秀之進は紙の大筒の他に鉄砲も用意して、門弟らと数名で待ち伏せしますが、津軽の行列は現われません。実は事前に密告する者がいて、行列はコースを変更していたのです。暗殺はあえなく失敗しましたが、一枚の果たし状で大名が行列の順路を変えたというのは、世間の聞こえはよいものではありません。結局、これがきっかけで寧親は体調を崩したともいわれ、数年後に隠居することになります。秀之進が最初に要求した隠居は、一応達成されることになりました。

一方、暗殺が未遂に終わった秀之進は、盛岡藩に累が及ばないようにと、「相馬大作」と名を変えて江戸で暮らします。しかし弘前藩はあらゆる手づるを使って秀之進を探し出し、秀之進は幕府に捕らえられ、翌文政5年(1822)、処刑されました。享年、34。

弘前藩の記録では、この事件は秀之進の背後に盛岡藩の意思が働いていたことになっています。そうとらえても無理からぬ部分もあるでしょう。その後、相馬大作こと秀之進は、江戸の人々から「南部の大石内蔵助」などと持てはやされることになります。主君の恨みを晴らすべく単身で大名に果たし状を突きつけ、闘いに及ぼうとした点などが痛快に感じられたのでしょう。講談や芝居にもなって、人気を博しました。 また幕末の藤田東湖や吉田松陰は、秀之進を忠義の人として称えています。

一方、事件当時、63歳であった松浦静山は、「児戯に類すとも云べし」と酷評しました。 同時代人が噂を見聞した秀之進の顛末と、後年に痛快な物語として広まった相馬大作事件とでは、受け取られ方、感じられ方も随分異なったのかもしれません。似たようなことは、現代においても少なからずあるように思います。

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