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淵田美津雄の生涯~真珠湾攻撃総隊長からキリスト教伝道師へ

2017年05月30日 公開
2019年04月24日 更新

5月30日 This Day in History

今日は何の日 昭和51年5月30日

真珠湾攻撃総隊長・淵田美津雄が没

昭和51年(1976)5月30日、淵田美津雄が没しました。真珠湾攻撃時の攻撃隊総隊長を務め、「トラ トラ トラ(我、奇襲ニ成功セリ)」を打電させたことでもよく知られます。しかし淵田は戦後、一転してキリスト教に入信し、伝道活動に残りの人生を費やしたことは、あまり知られていないかもしれません。

明治35年(1902)に奈良県に生まれた淵田は、大正10年(1921)に海軍兵学校に入校。海兵52期で、同期には源田実らがいます。昭和3年(1928)、海軍中尉で霞ヶ浦練習航空隊偵察科卒業。昭和9年(1934)、館山航空隊分隊長と、航空畑を中心に歩み、昭和11年(1936)には大和型戦艦建造を批判し、空母への変更を啓蒙する航空研究会を立ち上げて、上層部から睨まれたりしています。

昭和14年(1939)には空母赤城飛行隊長を務め、また第一航空戦隊司令官・小沢治三郎中将の下で、空母の統一指揮と、艦上機の統一攻撃を研究したとされます。昭和16年(1941)、淵田は空母赤城飛行隊長に再任されました。降格人事でしたが、これは同期の連合艦隊航空参謀源田実のたっての希望で、淵田に赤城だけでなく、第一航空艦隊の全空母の航空隊の統一指揮を執らせるためのものです。その結果、淵田は搭乗員たちから「総隊長」と呼ばれました。そして淵田総隊長指揮のもと、昭和16年12月8日に南雲司令長官率いる第一航空艦隊(南雲機動部隊)は、ハワイ真珠湾への大規模航空攻撃を成功させ、アメリカ海軍戦艦群を壊滅させるのです。

その後も南方作戦、インド洋作戦に出撃した南雲機動部隊の攻撃隊の総指揮を淵田が執り、作戦を成功裏に進めました。 ところが昭和17年(1942)6月のミッドウェー海戦では、淵田は虫垂炎の手術のために指揮を執ることができず、機動部隊はすべての空母を失う惨敗。淵田は赤城から脱出する際、両足を骨折する大けがを負いました。

その後、航空隊教官や海軍大学校教官を経て、昭和18年(1943)には第一航空艦隊参謀、連合艦隊航空参謀に転じます。昭和19年(1944)のレイテ沖海戦では、航空主務参謀として、神風特別攻撃隊の命令起案作成なども行ないました。

昭和20年(1945)8月に広島に原子爆弾が投下された翌日、海軍調査団の一人として市内を調査し、二次被爆に遭います。そして終戦。公職追放された淵田は、郷里の奈良に戻るしかありませんでした。

当時の様子を、アメリカ在住の淵田のご子息より直接お話しを伺いましたが、淵田は器用であったらしく、自分一人で材木を切って、大工仕事をして、家族が暮らす家を建てたそうです。そして遅れていた息子の勉強を見てやり、わからない部分はわかる学年まで教科書を遡って、すべての疑問を解消させるかたちで理解させる教え方であったといいます。

ほどなく淵田はC級戦犯の証人として軍事法廷に召喚されました。勝者が敗者を裁く欺瞞に満ちた裁判に怒った淵田は、逆にアメリカ人の日本人捕虜に対する虐待の証拠を得ようと、アメリカから帰国した日本人捕虜たちに話を聞きました。すると思いがけない話を聞きます。ある収容所で日本人を献身的に看病してくれた若い女性がいた。彼女の両親は宣教師であったが、スパイ容疑でフィリピンにおいて日本軍に処刑されていた。 しかし、両親は死の直前まで、「父よ、彼らを赦したまえ。そのなすことを知らざればなり」と、日本軍への赦しを神に請うていた。彼女はそんな両親の遺志を継いでいたという。

その話を聞いた淵田は半信半疑でしたが、続いて昭和23年(1947)、かつて日本本土を爆撃したドーリットル隊の一員で、中国で日本軍の捕虜となっていたジェイコブ・デシェーザーが、「汝の敵を愛せよ」のキリスト教の人類愛で敵意を克服し、宣教師として来日したことに衝撃を受けます。それから淵田は聖書を読みふけり、ついに洗礼を受けてキリスト教徒となりました。「敵意を克服しなければ真の平和は得られない」という思いからだったといいます。

淵田はデシェーザーとともに、10年間をかけて北海道から沖縄まで伝道して回ります。これに対して元海軍仲間から批判も受けますが、淵田はひるまず、さらに渡米して全米各地で説教をし、敵意を克服して平和をもたらす道を説きました。これに対して、「殺人者は帰れ」と罵倒されることもありましたが、淵田は「戦争は互いの無知から起きたこと。一方に謝罪を求めるのではなく、戦争の愚かしさに日本もアメリカも悔い改め、互いに理解し、憎しみの連鎖を断ち切ろう」と呼びかけ、大きな感動を呼びます。 昭和28年(1953)にはホノルルを訪れ、現地が「帰ってきた男」と報じる中、60日間滞在して、教会で呼びかけを続けました。

晩年は日本で過ごし、昭和51年没。享年74。後半生をキリスト教の教えに則って、日米の憎しみの連鎖を断つことに費やした淵田の生き方。これに対するいろいろな意見は今もあるのかもしれませんが、彼らしい勇敢な選択であったとはいえないでしょうか。

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