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児玉源太郎~「百年に一人の戦略家」の生涯

2018年02月25日 公開

歴史街道編集部

児玉源太郎
 

児玉源太郎が生まれる

今日は何の日 嘉永5年閏2月25日

嘉永5年閏2月25日(1852年4月14日)、児玉源太郎が生まれました。日露戦争時の満洲軍総参謀長であり、明治を代表する政治家です。

ペリー来航の前年、長州藩の支藩・徳山藩の中級武士の家に生まれた源太郎は、父が重役に睨まれて牢死したため、姉夫婦に育てられます。しかし義兄は藩内の対立で、自邸で斬殺されました。幼い源太郎は自ら義兄の遺体を片付けたといわれます。その後、17歳の源太郎は藩の「献功隊」の小隊長に任じられ、箱館五稜郭の戦いに参加。敵の夜襲を冷静な判断で撃退する活躍を見せました。

そんな源太郎に注目したのが新政府軍の指揮官、山田顕義です。松下村塾出身で、大村益次郎にも師事した戦術の天才でした。山田の後押しで兵学寮(下士官養成所)に入ったのが、源太郎の軍人への道の始まりでした。やがて源太郎は陸軍少佐となり、佐賀の乱や神風連の乱の鎮圧に活躍、西南戦争では熊本城を守り抜きました。軍旗を奪われて切腹しようとする乃木希典少佐を止めたのも、この時のことです。

その後、近衛局の事務方の仕事に回り、臨時陸軍制度審査委員会の座長など、陸軍を近代化させるための諸委員会に関わって、事務処理能力と意見をとりまとめる政治的手腕を身につけていきました。

明治20年(1887)には桂太郎の後押しで陸軍大学校の校長に就任、ドイツから招聘したメッケル少佐の講義を校長自ら熱心に聴講し、メッケルは「招来、陸軍の児玉か、児玉の陸軍かと呼ばれることになろう」と予言しています。
 

後藤新平との名コンビで台湾の近代化に尽力

明治27年(1894)の日清戦争では、源太郎は後方支援に回り、戦地から帰還する将兵の検疫・消毒にあたりました。この時、源太郎とコンビを組んだのが後藤新平で、23万人以上を検疫、15万人以上を消毒する大事業に成功し、諸外国を瞠目させました。児玉・後藤のコンビは3年後の源太郎の台湾総督就任で復活、後藤は民政長官として源太郎を支えます。

源太郎の方針は「同じアジア人として台湾近代化に尽くす」というもので、インフラを整備し、台湾経済は劇的に変化します。台湾が今も親日国なのは、源太郎や後藤ら台湾近代化のために力を貸した日本人たちの存在があるからなのです。

やがてロシアが満洲を不法占拠し、さらに朝鮮半島を窺う形勢となり、にわかに日露間が緊張し始めます。そんな最中、陸軍参謀次長の田村怡与造(いよぞう)が急死。対露作戦の立案役を失って陸軍が狼狽する中、源太郎はその後釜を快諾しました。台湾総督に内務大臣まで兼務して、次期首相と目されていた源太郎にすれば、数段の降格でしたが、「国家のためであれば、自分の身は二の次である」と言って引き受けたのです。
 

旅順攻囲戦での陣頭指揮

児玉といえば、日露戦争の旅順の戦いにおける次の場面がよく知られているでしょう。

「攻撃計画を次のように決定する。一、203高地の占領を確実にするため、速やかに重砲の陣地を高崎山に進め、椅子山の制圧を準備すること。二、203高地占領後も28サンチ榴弾砲を15分ごとに発射し、一昼夜続けて敵の逆襲を阻止すること。意見があれば述べよ」

すると第三軍の奈良砲兵少佐が反発します。
「重砲陣地の速やかな移動は不可能であります」

児玉は厳然と命令します。
「やる気になればできる。24時間以内に重砲陣地の移動を完了せよ」
ちなみにこの重砲は、28サンチ砲ではありません。

次いで佐藤砲兵中佐が言います。
「高地占領後も逆襲する敵を阻止するため、15分間隔で砲の射撃を継続せよと言われますが、味方撃ちになる恐れ大です」

「そこを注意してやれ」
と児玉が言うと、佐藤は「陛下の赤子を陛下の砲で撃つことなどできません」と反発しました。

すると児玉は、急にはらはらと涙を流しながら怒鳴ります。

「陛下の赤子を無為無能の作戦によっていたずらに失ってきたのは誰だ。わしはこれ以上兵の命を無駄にしたくないから作戦の変更を命じているのだ」

「203高地の西南に100名近くの兵が昨夜から張り付いているという。その姿を実際に見てきた者がいるか。参謀が前線を見ようともしない。そんなことで成功するはずがないだろう!」

この児玉の大喝で、一同は眠りから叩き起こされたようになったといいます。
 

百年に一度の戦略家、惜しまれる死

第三軍の参謀たちを叱咤した児玉ですが、彼の本領はこうした戦場でのやりとりよりも、むしろもう少しスケールの大きな戦略、政略にありました。彼はこう語っています。

「戦争を始める者は、戦争を終わらせることを考えておかねばならぬ」

「戦場として荒らした地は、終戦の後は以前にもまして住みやすい環境に直す責任がある」

実際、日露戦争終結後、児玉は南満洲の経営をどうするか、検討を重ねます。「これからの日本の安全と発展に不可欠」と考えていたからでした。日露戦争に勝利したとはいえ、依然、ロシアは隙あらば南下しようと、満洲を窺うでしょう。 それを許してしまったら、何のための日露戦争であったかわからなくなります。

そこで児玉は、南満洲の経営を「文装的武備(文化・教育・衛生に裏打ちされた武備)」を軸とする国策会社に委ね、日本人入植者が正業に励みながら、その治安が守られるようにすることを考えます。それが南満洲鉄道株式会社でした。

そして、その満鉄のトップに、児玉は見識と実力において最も信頼する後藤新平を推薦します。児玉は自ら後藤のもとに出向き、満鉄総裁就任を依頼します。後藤は逡巡しますが、翌日、児玉が急逝。これに仰天した後藤は、児玉の遺志を継ぐべく、自ら満鉄初代総裁に就任することになります。

児玉の死は日露戦争集結から僅か1年後のことでした。もし児玉がもう少し生きていたら、日本の進路も随分変わっていたのかもしれない。そう思わせるだけの人物であり、早すぎる死が惜しまれます。

ちなみに日露戦争後、児玉は首相にという周囲の声もありましたが、自らの意志で陸軍参謀総長のポストを選んでいます。これは児玉が、政と軍、陸と海、軍の整理は自分でなければできないという責任感から、あえてこのポストに就いたといわれます。自分の名誉や権勢への欲がなく、ただひたすらに国家のことを考えていた児玉は、まさに「百年に一人の戦略家」ともいうべき人物といえそうです。



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