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菅野直の生涯と最後の出撃~諸君ノ協力ニ感謝ス、ワレ菅野一番

2017年07月31日 公開
2023年03月09日 更新

『歴史街道』編集部

 

今日は何の日 昭和20年(1945)8月1日

343空戦闘301飛行隊長・菅野直が戦死

昭和20年(1945)8月1日、菅野直が戦死しました。日本海軍の戦闘機搭乗員で、海軍第343航空隊「剣(つるぎ)」の戦闘301飛行隊、通称「新選組」の隊長として知られます。

大正10年、菅野は警察官の父親の赴任地であった朝鮮半島の竜口で、次男として生まれました。まもなく宮城県伊具郡枝野村(現、角田市)に移り、そこで成長します。子供の頃から負けん気の強い餓鬼大将でしたが、角田中学校には一番の成績で入学し、石川啄木に傾倒する文学少年の一面もありました。菅野自身も進学を望んでいたはずですが、経済的事情から大学進学は兄に譲り、昭和13年(1938)、自らは金のかからない海軍兵学校へ進みます(70期)。昭和18年(1943)、飛行学生を経て戦闘機専修となり、大分海軍航空隊で教育を受けました。飛行学生時代の菅野は荒っぽいことで有名で、教官との模擬空戦では教官の機に猛接近し、教官があわてた隙に背後をとって見せたりした話が伝わります。

昭和19年(1944)4月、23歳の菅野は第343航空隊(初代)の分隊長として南洋に進出。7月に343空が解隊となり、新たに201海軍航空隊の戦闘306飛行隊の分隊長となります。当時はフィリピンのミンダナオ島ダバオが拠点で、他航空隊から後に343空「剣」でともに戦う撃墜王・杉田庄一や笠井智一が部下となりました。ある時、部下の笠井らが町で憲兵隊と喧嘩になり、憲兵隊が身柄引き渡しを要求すると、菅野は頑としてこれを拒みます。それでも憲兵隊がうるさいので、菅野は笠井らを連れて敵爆撃機が頻繁に来襲していたヤップ島に進出、ここで連日、敵のB24爆撃機を撃墜し、第一航空艦隊司令長官から感状を受けました。この時、防禦砲火に優れたB24相手に菅野が用いた戦法が直上方攻撃で、敵の1000m上空から背転し、真っ逆さまに垂直に敵機の真上から防禦砲火の死角をついて攻撃し、敵の翼の前をすり抜けるというものでした。衝突すれすれの、反射神経と恐怖に打ち勝つ強烈な精神力が求められる凄まじい戦法です。

その後、菅野は戦闘機の補充のため、笠井らを連れて内地の工場に向かいますが、その間に大きな出来事がフィリピンで起こります。神風特別攻撃隊の出撃で、指揮官は菅野と同期の関行男でした。関は敵空母に体当たりして大戦果を挙げます。フィリピンに戻った菅野は、実は神風特攻隊の指揮官候補は菅野だったが、不在のため同期の関になったらしいと聞かされて衝撃を受けました。「自分の代わりに関を死なせてしまった」という自責の念です。

そんな菅野を支えたのは、部下の杉田庄一でした。ラバウルの撃墜王として知られる杉田は菅野とよく気が合いましたが、実は彼は山本五十六連合艦隊司令長官がブーゲンビル島上空で撃墜された時の、6機の護衛戦闘機の一人です。杉田は口にこそ出しませんでしたが、長官を守れなかったことへの強い自責の念を抱いており、菅野の心の傷もよく理解できたのでしょう。菅野は部下の杉田から、空戦方法についても学んでいます。

同年末、菅野は内地に召還され、追って杉田や笠井らも内地に戻りました。軍令部にいた源田実大佐の発案による第343航空隊(2代目)の編成のためです。源田は米軍に押される一方の戦局の中で、強力な戦闘機部隊を持つことで一極優勢のかたちをつくり、制空権挽回の端緒とし、敵にプレッシャーを与えることを企図します。そのために各部隊から歴戦のパイロットを集め、また戦闘機は零戦に代わる新鋭機・紫電改を集中配備しました。そして源田自ら司令となり、松山基地に進出して、3個戦闘飛行隊で343空を構成します。戦闘701飛行隊は鴛淵(おしぶち)孝大尉、戦闘407は林喜重大尉が隊長となり、戦闘301の隊長が菅野直大尉でした。同隊には南洋以来の杉田や笠井も一緒です。

戦闘301には皇族から特別に「新選組」の隊名が与えられ、他の隊も負けじと701は「維新隊」、407は「天誅組」と名乗り、第343航空隊は隊員たちの発案で「剣」の異称を持つに至ります。343空は源田の指示で、徹底した編隊空戦の訓練が行なわれました。情報収集と伝達にも力を入れ、高速偵察機・彩雲による独自の第四偵察隊「奇兵隊」を持ち、また各機に高性能の通信機を載せて、空戦中でも指揮官が逐次命令を下せるようにしました。

昭和20年(1945)3月19日、343空は初陣を迎えます。呉方面攻撃を狙う敵の空母艦載機350機の大編隊に、松山基地から50機の紫電改で迎撃し、敵に痛撃(日本側の記録では52機撃墜)を与えました。菅野も大暴れしますが、敵の銃弾で機が火を噴き、やむなく落下傘降下します。部下の杉田は一人で5機撃墜。この日の戦いで米軍側は「日本にまだこれほどの精強部隊が残っていたのか」と驚嘆したといわれます。その後も菅野率いる「新選組」の活躍は続き、4月12日の喜界島上空の空戦では敵20機を撃墜しました。しかし、3日後の4月15日、鹿屋基地で敵の急襲を受けて、杉田が戦死。菅野は落ち込みますが、戦いは続きます。燃料の質が落ち、機体の補充もままならない中、343空の面々は死闘を続け、407隊長の林が、701隊長の鴛淵が散っていきました。

そして菅野の運命の8月1日。 その日、敵爆撃機迎撃に向かった菅野らですが、部下たちは「我、筒内爆発ス」という菅野隊長からの音声を受信します。機銃弾が筒内で暴発して翼を大きく破損したのです。二番機の堀が心配して菅野機に寄り添いますが、菅野は「俺に構わず敵に向かえ」と手まねで示し、それでも堀が動かずにいると、菅野は怒った表情で拳骨で殴るまねをし、やむなく堀が敵に向かおうとすると、菅野の表情は和らいだといいます。空戦後、「全機集マレ」という菅野の声を受信し、部下たちが隊長の無事を喜んでいると、「諸君ノ協力ニ感謝ス」の声を最後に音声は絶え、菅野機はどこにも見当たらず、未帰還となりました。享年24。

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