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黒田長政の遺言書~家康に天下をもたらした男の矜持と父親自慢

2017年08月04日 公開

歴史街道編集部

福岡藩主黒田家墓所
福岡藩主黒田家墓所(福岡市博多区)
 

今日は何の日 元和9年8月4日

黒田長政が没

元和9年8月4日(1623年8月29日)、黒田長政が没しました。黒田官兵衛の嫡男で、関ヶ原合戦では福島正則、吉川広家、小早川秀秋らを味方につけ、東軍に勝利をもたらしたことで知られます。大河ドラマ「軍師官兵衛」では、松坂桃李さんが好演していたことは記憶に新しいところです。

「官兵衛が大坂方と通じれば、加藤清正は喜んで味方になるはずだ。そのほかの九州大名である島津・鍋島・立花らが大坂方なので、九州の大名が結束して官兵衛と清正が西上すれば、中国地方の軍勢も加わって十万騎になる。これだけの大軍が家康一人と戦うことは、卵の中に大きな石を投げいれるようなものだ(家康は簡単に潰れてしまうだろう)」

これは長政が死ぬ直前、遺言書の中に記した内容です(「黒田家文書」)。関ケ原合戦の折、父・黒田官兵衛がその気になれば、九州から東に進軍して、徳川家康を倒すこともできたということです。しかし、当の長政は家康のために尽力して、関ヶ原の決戦を僅か1日で決着をつけました。言っていることとやっていることが矛盾するではないか、という話ですが、実は長政が言いたかったのは「黒田は徳川よりも強い」ということではありません。要するに自分は東軍勝利に最大限尽力したし、父・官兵衛もその気になれば天下を取れたにもかかわらず、東軍勝利に貢献した。つまり黒田家は徳川家に天下をもたらした名誉の家なのだから、子々孫々そのことを忘れずに、家を大切に守れ、ということなのです。子孫の繁栄を願っての父親自慢。家族の結束を重んじた黒田家の家風に通じる長政の一面といえるのかもしれません。

ところで晩年の長政は毎月一度、家老や忠義に篤い家臣5、6人と、「異見会」というものを開いていました。 この会には「ここで話すことを誰も怒ってはならないし、しこりも残してはいけない。また絶対に他言無用」というルールがあります。参加者が長政に対して、遠慮なく言いたいことが言えるようにという配慮でした。別名「腹立たずの会」とも呼ばれるこの会で、長政は納得のいくまで家臣たちと話し合っています。逆にいえば、普段の長政の感情の振幅が大きかったことの表われなのかもしれません。たとえば官兵衛の没後、長年、父親から目をかけられてきた家中随一の勇将・後藤又兵衛基次を追放し、奉公構という他家に仕官できない厳しい処分を下したことなども、長政の感情の振幅の激しさを印象づけます。もっとも「腹立たずの会」において、長政に少しでも怒ったような雰囲気が見られると、家臣たちが「おやおや、これは一体どうしたことでありましょうか。殿が怒り給えるように見えまするぞ」と声をかけます。すると長政は「いやいや、心中に少しも怒りなどはない」と表情を和らげました。良い主君であろうと努める長政の姿は非常に人間くさく、我慢して腹立ちを鎮める様子にほほえましいものを感じます。

史料的な裏付けはありませんので勝手な想像ですが、長政は「天下一の軍師」と称される父・官兵衛にコンプレックスを抱いていたのでは、と感じます。 智謀では到底及ばないので、父ができない武勇をもって世に名を上げようとした。ところが官兵衛は後藤又兵衛の武勇を賞し、長政としてはそれが悔しい。そんな屈折した思いが、又兵衛の追放・奉公構という感情的な処分になったのではないでしょうか。あるいは秀吉の没後に徳川家康に急接近したのも、父・官兵衛が軍師として秀吉を天下人にしたというのであれば、自分は武勇と調略をもって家康を天下人にして見せるという、父に負けまいとする思いがあったのかもしれません。黒田官兵衛という偉大な父親を持った長政の密かな苦悩というものも、実はあったのだろうと想像します。

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