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松田重次郎~広島の復興を牽引したマツダ創業者

2017年08月05日 公開

歴史街道編集部

広島市

今日は何の日 明治8年8月6日

松田重次郎が広島に生まれる

昭和20年(1945)8月6日、広島に原子爆弾が投下され、およそ14万人もの一般市民が亡くなりました。また、その後遺症で苦しんでいる方が今も多数いらっしゃいます。犠牲になられた方々に、哀悼の意を捧げたいと思います。

さて、その広島に明治8年(1875)8月6日、松田重次郎が生まれました。東洋工業(現マツダ)の事実上の創業者として知られます。安芸郡仁保島村向陽(現、広島市南区向陽)に生まれた重次郎は、14歳で大阪に出て、鍛冶屋で修行します。さらに呉や佐世保の海軍工廠などで、造船技術者として腕を磨きました。

明治39年(1906)、32歳の重次郎は大阪で鉄工所を開き、自ら発明した「松田式ポンプ」の製造販売を展開します。8年後に第一次世界大戦が始まると、軍需景気から事業拡張の好機となりますが、重次郎は故郷に残る80歳の母親が心配で、生まれ故郷の広島に帰りました。

大正10年(1921)、広島に帰った重次郎は、前年に設立されていた東洋コルク工業株式会社の社長に就任。それまで培ってきた機械技術を基礎にして、自動車製造の夢を抱き始めます。昭和2年(1927)には社名を東洋工業株式会社に改めました。そして4年後の昭和6年(1931)、安芸郡府中村(現、府中町)の工場で、三輪トラック(オート三輪)が完成します。カール・ベンツが初めて自動車を製造してから、約半世紀後のことでした。重次郎はこのトラックを「MAZDA号」と名づけます。自らの姓と、ゾロアスター教の叡智の神・アフラ・マズダーからとったといわれます。三輪トラックの生産は軌道に乗り、東洋工業は規模を拡大していきました。

昭和20年8月6日、広島に原子爆弾が投下。街は壊滅し、東洋工業も多くの社員を失いますが、重次郎は無事でした。工場のある府中が、爆心地から5km以上離れていたことが幸いしたのです。重次郎は工場の敷地を公的機関に提供し、広島県庁はこの地で業務を再開してほぼ一年間使用、NHK広島放送局も同敷地から放送を再開しました。

広島の惨禍と悲嘆に暮れる市民を目のあたりにした重次郎には、胸に期するものがありました。「広島の経済復興を、東洋工業が牽引していく」という思いです。重次郎の東洋工業は、民生用トラックなどの生産を続けて地域経済を後押しし、昭和25年(1950)にプロ野球球団・広島カープが設立される折には、広島県内の他企業とともに、東洋工業も出資を行ないました。そして昭和26年(1951)10月、重次郎は自らの工場に天皇皇后両陛下の訪問を受ける栄誉を機に、社長の座を息子の恒次に譲り、翌年、市内で没します。享年77。

その後、息子の恒次は乗用車の生産にも力を入れ、東洋工業は乗用車・トラック双方を生産する総合自動車メーカーへと成長していきます。特に「ロータリー・エンジン」の開発に世界で初めて成功した技術力は、重次郎以来培ってきた東洋工業の技術水準の高さを証明するものといえるでしょう。

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