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細川藤孝~文武両道、マルチな戦国武将の生涯

2017年08月20日 公開
2023年04月17日 更新

8月20日 This Day in History

丹後田辺城
丹後田辺城二層櫓(京都府舞鶴市)
関ケ原の戦いが勃発すると、 隠居していた細川藤孝は田辺城に入城し、西軍を迎え撃った。
 

今日は何の日 慶長15年8月20日

細川藤孝(幽斎)が没

慶長15年8月20日(1610年10月6日)、細川藤孝(幽斎)が没しました。足利義輝、足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武人で、当代一流の文化人としても知られます。

天文3年(1534)、藤孝は室町幕府の幕臣・三淵晴員の次男に生まれました。幼名は萬吉。しかし一説に萬吉は12代将軍足利義晴の落胤ともいわれ、それが事実であれば藤孝は、13代将軍義輝、15代将軍義昭の庶兄にあたることになります。7歳の時に伯父で和泉国半国守護の細川元常(晴員の兄)の養子となり、天文23年(1554)、養父の死により21歳で家督を相続、13代将軍義輝に仕えます。しかし永禄8年(1565)に義輝が松永久秀と三好三人衆によって討たれると、藤孝は義輝の弟・一乗院覚慶を保護し、諸大名の許を転々としながら、覚慶の将軍就任に尽力。やがて朝倉義景の許で明智光秀と出会い、織田信長に助力を求めました。

信長がこれを引き受け、覚慶を奉じて上洛し、15代将軍義昭が誕生すると、藤孝は山城国勝龍寺城を本拠とします。その後、信長と義昭が対立すると藤孝は信長に従い、以後は信長の部将として各地を転戦。明智光秀の与力として光秀とは入魂の仲で、天正6年(1578)には信長の仲介で藤孝の嫡男・忠興と光秀の娘・玉が結婚しています。丹後攻めで丹後南部を攻略すると、信長よりその領有を認められ、宮津城を居城としました。

ところが、天正10年(1582)に本能寺の変が起こると、藤孝はあれだけ親密であった光秀の再三の協力要請を断り、幽斎玄旨と号して家督を忠興に譲り、自分は田辺城に隠居してしまいました。時に藤孝、49歳。この辺が、藤孝の「喰えない男」のイメージを決定づけたようにも思います。

光秀が秀吉に討たれると、藤孝は秀吉から重用されて各地の戦いに参加、6000石を加増される一方で、徳川家康とも親交を持ち、秀吉が没すると、家康陣営に与します。慶長5年(1600)の関ケ原合戦前夜、嫡男の忠興が主力を率いて家康とともに上杉征伐に向かい、藤孝は500の手勢で田辺城を預かりますが、そこへ西軍1万5000が来攻。しかし藤孝は果敢に戦い、西軍はたった500で守備する城を落とせません。世にいう田辺城攻防戦です。藤孝は実に2カ月以上も持ちこたえ、古今伝授を継承する藤孝が討死することを恐れた朝廷が、勅命によって講和を結ばせるという異例の結末となりました。しかしこれによって藤孝は、西軍1万5000を関ケ原本戦に間に合わせなかったという殊勲を挙げたのです。

関ケ原合戦後、忠興は豊前小倉39万9000石の大封を得て、藤孝は京都で余生を送ったといわれます。関ケ原から10年後の慶長15年、京都の自邸で没。享年77。5人の天下人に仕えながら正確に先を読み、家を守り、発展させた藤孝。そこからは単に世渡り上手なのではなく、文武ともに一流の人物だからこそ為し得た、冷徹な決断が窺えます。

また、歌を通じて示した当意即妙の機転も、藤孝という人物の頭の回転の早さと、諧謔めいたものも感じさせます。そんなリアリストの人間味を感じさせる逸話を最後に紹介しましょう。

ある日、太閤秀吉が赤い小袖を着て、諸大名の前で「どうだ?」と自慢しました。すると居合わせた藤孝がすかさず歌を詠みます。 「ほのぼのと 赤き小袖を召す時は 皺隠れ行く 御年若さよ」。この歌の本歌は柿本人麻呂の「ほのぼのと 明石の浦の朝霧に 島隠れ行く 舟をしぞ思ふ」で、藤孝は「船をも見せぬ朝霧ならぬ、皺をも見せぬ赤き小袖であるなあ。殿下の若々しきことよ」と詠んだのです。秀吉は大変喜び、小袖を脱いで、褒美として藤孝に与えました。すると今度は、 「下さるる 小袖の丈の 長ければ かたじけなさは 身にぞ余れる」 と詠みます。「下されたこの小袖の丈の長さのように、身に余る光栄です」という意味でした。そのやり取りを聞いていた有馬玄蕃頭豊氏が、「さすがは幽斎殿、見事に詠まれるものよ」と、ちょっと藤孝の肩を小突くと、藤孝は受け身をとるようにころりと一回転して、 「とんと突く ころりと転ぶその内に いつの間にかは 歌をいふさい(幽斎)」 と詠んでみせ、それならばとまだ年若い有馬が怖れ気もなく藤孝の急所をつかむと、「南無阿弥陀仏 六字は二字になりにけり 有馬玄蕃に四字(指似)をとられて」 「南無阿弥陀仏。豊氏殿に急所の指に似たものを取られてしまった。これで私もお陀仏だ」と詠んだとか。悪ふざけの駄洒落のようでもありますが、藤孝の機転と諧謔を感じさせます。

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