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長野主膳~大老・井伊直弼の懐刀

2017年08月27日 公開
2023年03月09日 更新

『歴史街道』編集部

彦根城

今日は何の日 文久2年8月27日

長野主膳が処刑される

文久2年8月27日(1862年9月20日)、長野主膳が処刑されました。国学者で幕末の彦根藩主・井伊直弼に仕え、直弼の「懐刀」と呼ばれた人物です。

主膳は文化12年(1815)、伊勢国飯高郡滝ノ村に生まれました。井伊直弼とは同い年です。先祖は上州の長野氏ともいわれますが、詳しいことはわかりません。前名は主馬、諱は義言。若くして本居派の国学を学び、三河や美濃で講じていたといいます。

天保12年(1841)、27歳の時に近江に入り、翌年、「高尚館」という私塾を開きました。 埋木舎で一生を部屋住みで終わる井伊直弼が、主膳の存在を知るのはこの頃のことです。当時、和歌に関心を抱いていた直弼は、主膳に教えを請いたいと使いを出しました。ところが主膳は、一足違いで伊勢に向けて出立しており、直弼は残念な思いを詠んだ歌を、主膳に送っています。

二人が初めて対面を果たすのは、それから半年後のことでした。主膳と対面する前に、直弼は喜びを詠んだ歌を主膳に贈りました。

ひたすらに
あふみの湖の
まつ原や
まつかひありし
けふぞうれしき

彦根藩主の息子が、一介の学者に過ぎない主膳との対面を、これほど待ち望んでくれていたとあれば、主膳でなくとも感激するのではないでしょうか。主膳と直弼の対面の場面の高揚感が、容易に想像できます。

そして直弼は、同い年の主膳の弟子となりました。 直弼が主膳から学んだのは、国学と和歌です。それまで直弼は茶の湯、和歌、能楽、居合、兵学などを嗜み、禅にも傾倒しています。 一生、陽のあたらない生活を約束される中で、自分の生きる道を、懸命に模索していたのでしょう。そうした中での主膳との出会いは、直弼にとって、孤独な心を癒してくれる「友」を得たことであったのかもしれません。

なお、主膳はその頃、日本を皇国とする立場から国体論を示した「古学答問録」を著わしており、「皇国学」というべきものを直弼に伝えています。 主膳が説くのは、徳川幕府による治世を認めつつ、その政権は朝廷の合意のもとで幕府に委任されたとする、尊王論に基づいた「大政委任論」でした。 この考え方は当時の教養人たちの間では、ごく一般的なものです。直弼も自然に受け入れたことでしょう。 後年、直弼が大老として、日米修好通商条約締結問題に直面した時、あくまでも朝廷の勅許を得るべきという姿勢を崩さなかったのは、こうした素地があったからでした。直弼に朝廷を蔑ろにする意図はなく、そのように導いたのは主膳だったのです。

やがて嘉永3年(1850)、直弼が兄の死により、思いがけず彦根藩主となると、主膳を家臣として20人扶持で召し抱え、藩校・弘道館の国学方に任じました。 さらに安政5年(1858)、直弼は幕府大老に就任。時あたかも将軍継嗣問題の最中で、一橋慶喜か紀州慶福(後の家茂)かで争っていました。 直弼は主膳を京都に送り、公家たちを説得させて、紀州慶福へと決定を導きます。 しかし、勅許を得ずに通商条約に踏み切ったことと、一橋派の敗北に業を煮やした者たちの後押しを受けて、水戸藩に密勅が下される異常事態が起こりました。「戊午の密勅」事件です。

幕府をないがしろにしたこの事件に、大老の直弼は関係者を処罰する安政の大獄へと踏み切ります。その際、主膳も、幕政に批判的な在野の志士や、一橋派への処罰を進言したといいます。いうなれば、幕府政治を守るために、反対派からの憎まれ役を引き受けたかたちの直弼・主膳主従でした。主膳が自分の妾で、才色兼備の女性・村山たかに、密かに反対派の動きを探らせたのもこの時のことです。

しかし安政7年(1860)、桜田門外において井伊直弼が水戸浪士らによって暗殺。直弼とともに、幕府のために働いてきた主膳の働きも空しいものとなりました。主膳は直弼の跡を継いだ藩主・直憲からは疎まれ、他の藩士からも嫉視されていました。そして文久2年(1862)、島津久光の進言する幕政改革に連動して、旧路線の井伊の政治が批判され、彦根藩が問罪されると、主膳は責任を問われて斬罪に処されました。享年48。その遺体は10年間も刑場に打ち捨てられたままで、骨が拾われて天寧寺の井伊直弼の供養塔の横に埋葬されたのは、明治5年(1872)のことです。

さらに昭和48年(1973)、直弼の供養塔と主膳の墓碑の間に、村山たか女の碑が建てられます。死んでもなお、悪者としてのレッテルを貼られ続けた井伊直弼と、それを支えた長野主膳、村山たか。歴史に善悪はなく、評価は移ろうものですが、身を寄せ合うように建つこれらの碑は、3人が共有した思いを今も語らっているようにも感じられます。

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