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乃木希典殉死の理由

2017年09月13日 公開
2018年08月28日 更新

9月13日 This Day in History

乃木希典

今日は何の日
大正元年9月13日、乃木希典が自刃

大正元年(1912)9月13日、乃木希典が自刃しました。明治天皇の大葬が行なわれた日の夜の、殉死として知られます。

乃木の指揮による日露戦争の旅順攻略戦については、「歴史街道」でも2度特集を組み、情報と物資の補給が不足する中で、可能な限り合理的な戦法を取っていたことを紹介しました。そして「どんな大敵が攻めてきても、3年は持ちこたえる」とロシア軍が豪語していた旅順要塞を、常時5万程度の寡兵をもって、半年で陥落させています。これにはむしろ世界が「乃木とその将兵が奇跡を起こした」と驚愕しました。この点だけを見ても、乃木を「無能」「愚将」呼ばわりした戦後の風潮が、正しいものではなかったことがわかります。

また旅順陥落後、ステッセルとの水師営での会見の折、乃木はあえてステッセルに帯剣のままでの降伏調印を許しました。これは敵の名誉を重んじる武士道精神に基づくもので、明治天皇の「武士の名誉を保たしめよ」の思し召しにもかなうものでした。とはいえ、攻略戦で生じた死傷者の数およそ5万は、近代戦ならでは膨大な数であり、日本人にとってはそれまで未体験のものです。当然ながら乃木も衝撃を受け、甚大な損害を出したことに強烈な自責の念を抱き、それは終生続きました。

明治39年(1906)1月、帰国した乃木は明治天皇に復命する際、「かくの如き忠勇の将卒を以てして、旅順の攻城には半歳の長月日を要し、多大の犠牲を供し…」と読み進むうちに、責任の重さに男泣きに泣きます。明治天皇は乃木の心中を思いやりながらも、「罪を償いたい」という乃木の言葉に対して、今は死ぬべき時ではない。どうしてもというのであれば、朕が世を去った後にせよ、という旨を伝えたといわれます。

その後、「日露戦争の英雄」として、乃木は長野師範学校で講演を求められました。 すると乃木は演壇に登らず、その場に立ったまま、「私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」と一言述べて絶句し、滂沱の涙を流しました。その乃木の姿に、満堂の生徒も教師も泣かぬ者はなかったといいます。日露戦争で凱旋した将軍や提督が誇らしげに戦功を語る中、ひとり乃木は、多数の将兵を死なせた責任を一身に背負って、泣くのです。何という責任感、誠実さでしょうか。

そんな乃木を明治天皇は、明治40年(1907)、学習院院長に任じました。翌年4月、裕仁親王(後の昭和天皇)と二人の弟宮が学習院初等科に入学されます。明治天皇は皇孫の教育を託せるのは、乃木以外にいないと考えたのでしょう。明治天皇が、人間のどんな部分を最も大切に考えていたか、伝わってくるのではないでしょうか。

しかし、日露戦争後の日本は、大国ロシアに勝ったことで、奢侈と安楽の風潮が生まれます。慢心でした。 乃木はそんな風潮を憂えていたのでしょう。小学校の児童3000人を集めた訓話で、次のようなことを語りました。

「驕りに傾くのは、お国の将来のために嘆かわしいことであります。どうか皆さんは質実剛健の徳を積んで、どこまでもお国を滅ぼす最も恐ろしい敵である、奢侈(しゃし)と戦う覚悟をもってもらいたいものです」

大正元年9月13日、午後8時。明治天皇のご遺体を乗せた車が宮城を出発、合図の号砲が放たれると、乃木は自宅において、古式に則って切腹し、明治天皇のあとを追って自決しました。享年64。妻の静子もともに自刃しています。

乃木の殉死については、多くの解釈がなされ、多くの文学にも影響を与えました。殉死の最大の理由は、やはり日露戦争の責任を取ったということになるかと思います。当時すでに、それを前近代的と揶揄する風潮も生まれていました。 しかし、そんな時代であるからこそ、人の生殺与奪を預かる立場にある者は、自分の責任にどう向き合うべきなのか、また、そもそも人の命を背負った責任がどれほどの重さであるのかを、乃木は自分の死をもって世の中に問うたと見ることもできるのかもしれません。

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