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岡田資~不当な戦争裁判に抗し、部下を守りぬいた陸軍中将

2017年09月17日 公開
2018年08月28日 更新

9月17日 This Day in History

今日は何の日 昭和24年9月17日
元陸軍中将・岡田資が絞首刑

昭和24年(1949)9月17日、岡田資(たすく)が処刑されました。元陸軍中将で、戦争裁判を「一方的な裁きである」として、法廷で徹底的に戦った人物です。藤田まこと主演で『明日への遺言』という映画になりましたが、岡田資の名は、今では知る人は少ないかもしれません。しかし、そのリーダーとしての姿勢、人間としての生き方は、ぜひ知っておいて頂きたい人物です。

明治23年(1890)、岡田は鳥取に生まれます。明治44年(1911)、陸軍士官学校を卒業(23期)、大正11年(1922)には33歳で陸軍大学校を卒業。大正14年(1925)にはイギリス大使館付武官補佐官として、ロンドンに2年半駐在しました。昭和5年(1930)には41歳で秩父宮雍仁(やすひと)親王付侍従武官を務めます。昭和13年(1938)、49歳で歩兵第八旅団長となり、武漢三鎮攻略戦に参加。非常に部下思いの指揮官であったようです。太平洋戦争が始まる昭和16年(1941)、52歳で陸軍中将となりました。戦車第二師団長、東海軍需管理部長などを歴任、内地にいたため、戦闘指揮での活躍譚などはありません。昭和20年(1945)には第十三方面軍司令官兼東海軍管区司令官に就任しました。

さて、その年の5月14日のことです。岡田が司令官を務める東海軍管区の名古屋市が486機ものB29によって絨毯爆撃され、市街の8割が焼失しました。一方、対空砲で撃墜されたB29から搭乗員11人が脱出し、彼らは捕らわれます。そして1カ月半後、11人は略式手続きを経て処刑されました。その後も東海軍管区内で空襲が繰り返され、名古屋の一般市民の死者は、およそ8000人にのぼります。一方、撃墜され捕獲された米兵は処刑され、その数は38人を数えました。戦後、岡田の東海軍管区で行なわれた略式手続きによる米兵の処刑は、正式な審理を経ていない不当なものであるとして、岡田と部下の計20人はB級戦犯として起訴されます。

昭和23年(1948)3月、岡田とその部下の裁判が横浜地方裁判所で開廷しました。検察側は、「略式手続きは正当な審理といえず、米兵の処刑は殺人にあたる」と主張します。一方、弁護団は「処刑された搭乗員はジュネーブ条約の規定する捕虜ではなく、名古屋地区に無差別爆撃を行なった戦争犯罪人である」と主張しました。というのも大正12年(1923)、オランダのハーグで米英仏蘭伊日の会合が持たれ、「爆撃は軍事目標に対して行なわれた時のみ適法とする」という宣言がなされていたからです。尋問が始まっても、岡田は略式手続きの正当性と、名古屋地区への爆撃は無差別のものであり、搭乗員を戦争犯罪人として扱ったのは正しいと主張、検察側と堂々と渡り合いました。

岡田はこう語っています。

「敗戦直後の世相を見るに言語道断、何もかも悪いことは皆敗戦国が負うのか? 何ゆえ堂々と世界環視のうちに国家の正義を説き、国際情勢、民衆の要求、さては戦勝国の圧迫も、また重大なる戦因なりしことを明らかにしようとしないのか?」

「要人にしていたずらに勇気を欠きて死を急ぎ、或いは責任の存在を弁明するに汲々として、武人の嗜みを捨て生に執着する等、真に暗然たらしめらるるものがある」

敗れたからといって、すべての非を押し付けられても仕方がないというのではないはずだ。責任ある立場にある者こそ、主張すべきことは断固主張すべきであると、岡田は言っているのです。

岡田の理路整然とした主張で、「岡田は無罪」の空気が醸成されました。一方、米兵の処刑を行なった部下は罪に問われる見通しになると、岡田は検察側すら驚く発言を行ないます。

「司令官は、その部下が行なったすべてについて、唯一の責任者です」

岡田は法廷で主張すべきことは主張しましたが、それは自分の無罪を勝ち取るためではありませんでした。 実は自分の主張を認めさせた上で、その自分が全責任を負うことによって、部下全員の減刑を図ることにこそ狙いがあったのです。 その岡田の意図は、法廷にいた全員が悟りました。岡田の奮闘の甲斐あって、部下たちは有罪にはなったものの、全員が死刑を免れます。すべてを岡田が一人で背負ったのでした。

岡田の一命を賭した堂々たる姿勢は、裁判官や検察官たちをも感銘させました。 彼らは時に明らかに岡田に有利な質問をし、助命の可能性を探りますが、岡田本人は全責任を自分が取るという姿勢を最後まで貫くのです。 また岡田は「世界民族の為」として、無差別爆撃を廃止すべく、国際法の修正を訴えました。日頃、熱心な日蓮宗の信者であった岡田は、平和を希求する心が強く、その点をとっても本来、処刑されるような人ではないのです。しかし彼は己の命で責任を果たすのです。 岡田の処刑にあたり、秩父宮をはじめ、法廷の裁判官や検察官からすら減刑嘆願が出ますが、当人が全責任を取る覚悟であるため刑は覆らず、絞首刑が言い渡されます。 その時、岡田はひと言「本望である」と応えました。

昭和24年9月17日、岡田は巣鴨で従容として処刑に臨みました。享年60。 リーダーの責任とはどれほどの重さのものなのか、また責任を取るとはどういうことなのか、岡田の背中が雄弁に物語っているように感じられないでしょうか。

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