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新幹線の父・十河信二~最後まで諦めなかった男の信念

2017年10月03日 公開

歴史街道編集部

新幹線
 

第4代国鉄総裁・十河信二が没

今日は何の日 昭和56年(1981)10月3日

昭和56年(1981)10月3日、十河信二が亡くなりました。第4代国鉄総裁で、「新幹線の父」として知られます。

十河は明治17年(1884)、愛媛県新居郡中村(現在の新居浜)に生まれました。東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、鉄道院に入り、初代鉄道院総裁の後藤新平に出会います。後藤は当時、広軌か狭軌かのレール間隔論争で、広軌(標準軌)を主張していました。関東大震災の際には十河は帝都復興院に出向し、後藤のもとで帝都復興に尽力しています。その後、南満洲鉄道総裁の仙石貢の誘いで昭和5年(1930)に南満洲鉄道(満鉄)に入社、理事を務めます。満鉄の初代総裁はいうまでもなく後藤新平で、満鉄は国内と違い、後藤の推す広軌を用いていました。後藤は昭和4年に没しましたが、十河は後藤の薫陶を受け、その仕事を継承する道をたどることになるのです。

十河は満洲で板垣征四郎や石原莞爾と出会い、親しくなります。満洲事変では、十河は関東軍に協力することを主張しました。しかしその後、石原が失脚し、日中戦争が始まると、十河は戦争不拡大を唱えますが軍に聞き入れられず、内地に戻って、戦時中は愛媛県西条市の市長などを務めます。戦後も隠忍自重の日々を送りますが、昭和30年(1955)、第4代国鉄総裁就任を請われました。

十河はすでに71歳。体調もすぐれず、固辞しようとします。しかし、当時の国鉄は相次ぐ事故で危機的といえるほど信頼を失墜しており、強力なリーダーのもと、組織の刷新がどうしても必要でした。十河の説得にあたったのは、三木武吉。大物政治家として知られます。三木は就任を拒む十河に「君は祖国を守らずに逃げるのか。そんなに命を惜しむ卑怯者であったのか」とわざと罵声を浴びせました。向こうっ気の強い十河の性格を知っていたからです。

案の定、十河は怒り、それならばと起ち上がります。「線路を枕に討死する覚悟である」。十河は総裁就任の際に、そう社員に挨拶しました。そして「古機関車」と揶揄されながら、まさに機関車の如く大車輪で動き始めます。国鉄の起死回生を託された十河が目指したのは、「広軌新幹線建設」でした。それは恩師ともいうべき、後藤新平から託された夢でもあったのです。日本の将来のために、その大動脈となりうる東海道新幹線を実現させる。しかしそれは口で言うほど容易ではありません。用地買収、隧道開削、車両開発、そして線路の建設と、とてつもない労力と費用を要したのです。

しかし十河は諦めませんでした。彼が好んだ言葉に「有法子(ユーファーズ)」というものがあります。満洲で覚えた言葉で「最後まで諦めない」という意味でした。十河は老身ながら全国を行脚して新幹線の必要性を説いてまわります。 また建設費用が3000億円を超えることがわかり、それでは国会を通らないと判断した十河は、「半分に見せかけろ。責任はおれがとる」と言って、国会審議を通しました。この度胸の良さ、大風呂敷はどこか後藤を彷彿とさせます。こうした努力と奮闘の末に、昭和34年(1959)に新丹那トンネルで新幹線の起工式が催され、融資の算段もついて、東京オリンピック開催9日前の昭和39年(1964)10月1日、ついに東海道新幹線は出発式を迎えました。

しかし、十河はその半年前に任期切れで国鉄総裁の座を去っており、出発式をテレビで静かに見守っていたといわれます。 新幹線開業から17年後の10月3日、十河は没しました。享年97。新幹線開業の陰に、最後まで諦めなかった男の信念があったことを、知っておくのもよいと思います。

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