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伊達輝宗の最期~そのとき政宗が下した非情の決断とは?

2017年10月08日 公開

歴史街道編集部

伊達輝宗首塚
伊達輝宗首塚(慈徳寺・福島県福島市佐原)
 

伊達輝宗が落命

今日は何の日 天正13年10月8日

天正13年10月8日(1585年11月29日)、伊達輝宗が没しました。息子の政宗にとって、非情の決断を迫られた痛恨の死でした。

伊達政宗が父・輝宗より伊達家当主の座を継承したのは、天正12年(1584)、政宗が18歳の時のことでした。 当時、父・輝宗はまだ41歳であり、働き盛りです。いささか早い家督譲渡に周囲は驚いたといわれます。 輝宗が政宗への譲渡を急いだ理由の一つとして、正室・義姫が政宗を据え置いて、次男の竺丸を跡継ぎにしようと考えていたことがありました。義姫の意向が伝われば、やがて家臣に義姫派が生まれ、家中を二分しかねません。輝宗はそれを案じて、未然に防いだというのです。

輝宗は隠居すると、義姫と次男の竺丸を伴って本拠の米沢城を出て、最上領との境に近い小松城に移りました。伊達家の北方を領する最上家は義姫の実家ですが、隙あらば伊達家を窺っており、輝宗は政宗のために、自ら前線防衛を引き受けるかたちでした。一方、伊達家の南には、奥羽で最大勢力を誇る蘆名家があり、政宗は南北に目を配らなければなりません。近隣の小豪族たちも伊達氏や蘆名氏、他の豪族などに離合集散を繰り返しており、裏切りや寝返りも日常茶飯事という有り様でした。そして政宗の家督相続の宴から、事件が始まります。

当時、蘆名氏に属していた小浜城の大内定綱が宴に顔を出し、政宗に帰参を願い出ました。政宗はこれを許し、大内は米沢城下にしばらく滞在して、小浜城に戻ります。そして戻った途端に大内は、政宗に叛旗を翻しました。大内は蘆名の命を受けて、家督を継いだ政宗の器量と、米沢城下の様子を探りに来ていたのです。この事態に新当主はどう対処するのか、政宗の行動に皆が注目しました。

翌天正13年(1585)春、蘆名氏に抗議文を送った政宗は、返答がないと見るや大軍を率いて蘆名領に攻め込みます。しかし蘆名の備えは固く、両者は半年近く睨み合いました。膠着状態にやむなく政宗は、軍を転じて大内氏の支城・小手森城を囲みます。すると政宗の軍勢の背後を、蘆名方の二本松城主・畠山義継が襲いました。これに呼応して城方も攻勢に転じ、挟撃された政宗は窮地に陥ります。押されて後退しつつ、政宗は軍を3つに分け、一隊を自分の手元に温存し、2隊で双方の敵に当らせました。そして城方の兵に疲労が見えた時、手元の新手を差し向けて、城兵を敗走させます。これに畠山勢が浮き足立ったところを、軍を返して全軍で畠山勢を痛撃して撃退。さらに小手森城も陥落させました。

城内には800人の男女がおり、降伏を申し出ます。 普通はこれを許すところですが、その手ぬるい処置が小豪族の離合集散につながっていると考えた政宗は、「撫で斬り」、すなわち全員殺すことを命じました。自分を裏切ればどうなるか、全奥州に示したのです。この「撫で斬り」の衝撃は大きく、蘆名氏の戦意も下がりました。慌てたのは敗走した畠山義継です。次は自分の番と震え上がり、政宗の父・輝宗に泣きつきました。輝宗の口添えもあり、政宗はしぶしぶ畠山の降伏を認めますが、所領の多くは没収、嫡子は人質に出すよう、厳しい条件を呑ませます。畠山は強い不満を抱きました。

政宗が畠山の降伏臣従を認めた数日後、畠山は輝宗を訪ね、仲介の労をとってくれたことへの礼を述べます。 そして辞去しようとしたところ、いきなり輝宗を拉致し、馬に乗せて20数人の家臣とともに二本松城に向けて走り出しました。 報せを受けた時、政宗は鷹狩の最中であったといいますが、取るものもとりあえず一行を追います。そして追いついた時、畠山らは阿武隈川を渡っていました。対岸は二本松領です。輝宗は馬の鞍壺に押さえ込まれていました。輝宗が連れ去られれば蘆名方の人質となり、政宗は面目を失うばかりか、蘆名に重要なカードを握られることになります。 切歯扼腕する政宗の耳に、輝宗の叫びが聞こえました。

「政宗、わしもろとも討ち果たせっ」

政宗は一斉射撃を命じます。断腸の思いの決断でした。伊達隊の鉄砲は畠山主従を殲滅しますが、畠山義継は脇差で輝宗を刺し殺し、二人とも馬から落ちたといわれます。自分を最も信頼してくれていた父親を、敵もろとも討たねばならなかった政宗。あまりにも苛酷な決断ですが、この時の政宗の決断力を伊達家臣団は大きく評価し、結束力が高まりました。それもまた父・輝宗の、せめてもの置き土産といえるのかもしれません。

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