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桂太郎~二大政党による健全な議会政治を志したニコポン宰相

2017年10月10日 公開

歴史街道編集部

桂太郎
 

桂園時代を現出した桂太郎が没

今日は何の日 大正2年10月10日

大正2年(1913)10月10日、桂太郎が没しました。日露戦争を勝利に導いた宰相として知られますが、その後は元老の弊害を断ち切るために、政党による議会政治を目指していたことで知られます。

桂太郎については以前、日露戦争にからめてご紹介した記憶があります。 桂といえば、「ニコポン」のあだ名で知られるように、ニコニコしながら相手の肩をポンと叩いて、対立感情を和らげるのが得意でした。そうした点から、「ナアナア」で遊泳した政治家と誤解されやすいですが、実際は志の固い人物であったようです。今回は日露戦争後の桂の歩みを中心にご紹介してみましょう。

第一次桂内閣の首相として桂が日本を導いた時期は、日英同盟締結から日露戦争終結までとまったく重なります。桂は心労で胃潰瘍になり、その激痛をこらえながらニコニコして、さまざまな根回しを行ない、バックアップに努めました。たとえば日銀副総裁の高橋是清がイギリスで外国債の募集に成功しますが、その裏では桂が、幕末以来イギリスの資本家とつながりのある伊藤博文や井上馨、あるいは長州出身の蔵相・曾禰荒助らと組み、八方手を尽くして、高橋の活動を支援したといいます。

その一方で、国運を賭けた日露戦争において、山県有朋や伊藤ら、天保年間生まれの元老たちが、何ら指導力を発揮できなかったのも事実でした。同じ長州出身の桂は、弘化4年(1847)の生まれで、彼らよりも6~10歳年下です。桂は、戦後は国政から、元老の影響力を排除しなければならないと考えました。そして思い切った手を打ちます。衆議院第一党の政友会に戦争協力を求める代わりに、戦後は政友会に政権を譲ることを約束したのです。もちろん、政党嫌いの山県には告げていません。そして日露戦争終結の翌年、桂は政友会総裁・西園寺公望を首班とする内閣に政権を譲ります。以後、官僚、陸軍をバックとする桂と、衆議院第一党の政友会総裁西園寺が、交互に内閣を組織する「桂園時代」を迎えました。

桂と西園寺は元老排除という点で意識は同じでしたが、桂はやがて政友会の政治手法に疑問を感じ始めます。政友会のそれは民意を楯に利権政治に走り、国家的要請を軽視するものでした。国益よりも党利を重んじる姿勢を、桂としては許すわけにはいきません。一方、元老たちは迷走の度合いを強めていました。山県はロシアの巻き返しを恐れて国力の限界を超えた軍備拡張を主張し、井上馨や松方正義は、緊縮財政の一点張りです。いずれも現状維持の発想であり、将来的な国家構想は何ら見られませんでした。

桂はここに至り、腹をくくります。元老は頼りにならず、政友会との協力も限界であるならば、長期的な国益の実現を図ることのできる政党を、自ら立ち上げようと。明治45年(1912)、桂はイギリスの議会政治を視察すべく、欧州に向かいます。明治天皇は桂の意図を知って大いに期待され、1万5000円(現在の約2億円)を下賜されました。日露戦後、欧州から社会主義などの新しいイデオロギーが日本にもたらされる中、いかに立憲政治を護持し、軍部の膨張を抑え、二大政党制による健全な議会政治を実現するか。そんな桂の理想を最も理解されていたのは、明治天皇であったのかもしれません。

しかし、桂がシベリア鉄道で欧州に向かっている途中で、明治天皇危篤、さらに崩御の急報がもたらされます。桂の悲嘆と落胆は容易に察することができるでしょう。帰国した桂を待っていたのは、内大臣兼侍従長としての宮中入りでした。桂の新党結成の意図を知った山県は、桂を裏切り者扱いし、陰謀によって宮中封じ込めを図ったのです。かくして桂は国政の表舞台から身を引くことになりました。

しかし、明治天皇崩御のショックから立ち直ると、桂は国政復帰を願い始めます。そして大正元年(1912)暮れ、桂は異例の勅語によって首相に復帰、山県系の人物を退け、腹心の若槻礼次郎や後藤新平を抜擢しました。 さらに翌年、桂は新党として立憲同志会の立ち上げを発表します。二大政党制に向けての大きな一歩でした。ところが、当時の国民は桂の真意を理解できず、野党勢力やマスコミ、さらに民衆が「閥族打破・憲政擁護」を叫んで国会を取り囲んだのです。これによって第三次桂内閣は、僅か60日で退陣となりました(大正政変)。そして8カ月後、桂は失意のうちに世を去ります。享年66。

志半ばにして斃れた桂ですが、彼が立ち上げた立憲同志会は、後に立憲民政党と名を変えて、立憲政友会と並ぶ二大政党の一つとして、昭和戦前の日本で議会政治を実現することになります。そうした意味で、桂の志はある程度、果たされたといえるのかもしれません。桂の死因は脳血栓でしたが、死後解剖で腹部に癌が広がっていたことがわかっています。あるいは日露戦争時の胃潰瘍に遠因があったのでしょうか。病身をおして、最後まで自ら信じる議会政治を求めようとした桂は、正真正銘の政治家といえるのかもしれません。

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