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立花宗茂~関ケ原で敗れるも、旧領を回復した鎮西一の勇将

2017年11月18日 公開
2018年10月26日 更新

11月18日 This Day in History

立花宗茂が生まれる

今日は何の日 永禄10年11月18日

永禄10年11月18日(1567年12月18日)、立花宗茂が生まれました。豊臣秀吉から鎮西一と賞された勇将です。

宗茂は豊後国大友家の重臣・高橋紹運の嫡男として生まれました。同じく大友家の重臣であった立花道雪(戸次鑑連)に請われ、その娘・誾千代と結婚し、娘婿として養子に入ります。大友宗麟、豊臣秀吉に仕えて柳川城主となり、九州征伐での島津軍追撃、朝鮮出兵時の碧蹄館(ビョクジェグァン)の戦い、露梁津(ノリャンジン)の戦いなど、数々の武功をあげました。関ケ原合戦では西軍に与して大津城攻略戦で活躍しますが、本戦には参加できず、一度は牢人となります。それでも徳川家康や秀忠に信頼され、5000石の幕臣に取り立てられています。今回は、宗茂の後半生をご紹介しましょう。

ある日、徳川家康と関ケ原合戦について話をしていた時、宗茂は「あの時は大津城を攻め落とし、東国大名の首を一つひとつ討ち取る覚悟でございました」と悪びれもせずに言ってのけたといいます。その後、家康が宗茂の禄高を万石以上にしようとすると、「ありがたき仰せながら、拙者も武将のはしくれ。一万石でも結構ですので、一国一城の主になりとうございます」と答えました。宗茂にすれば、関ケ原で西軍についたのは豊臣家への恩義に応えるためで、何ら恥ずべきことではない。そう信じるからこそ、堂々とした受け答えができたのです。 

宗茂が奥州棚倉一万石として大名に復帰するのは、慶長11年(1606)、40歳の時のことでした。 宗茂は将軍・徳川秀忠の相談役として篤く信頼され、他の大名からも戦国の生き証人として、話を求められることが多かったようです。尾張藩主・徳川義直から戦いの要諦について訊かれると、「立花家の軍勢3000は、他家の1万と何ら変わりません。なぜなら備えが良いだけでなく、常に士卒を依怙贔屓せず、慈悲を第一としたので、戦となれば皆が一命をなげうって力戦するのです」と答え、義直を感服させました。 元和6年(1620)には、秀忠より筑後柳川の再封を申し渡されます。一度改易となった旧領を回復するのは異例のことで、いかに宗茂が将軍に信頼されていたかが窺えるでしょう。

さらに宗茂は、3代将軍家光からも相談役として重用されました。寛永15年(1638)には、前年に起きた島原の乱で幕府軍の苦戦が続き、家光に頼まれて宗茂が出陣することになりました。この時、実に72歳。 家光が「こたびの討伐は容易ではあるまい。ご老体にも苦労をかけるが(新たに任じられた総大将の)松平伊豆とよく申し合わせ、取り計らってもらいたい」と声をかけると、宗茂は応えます。

「なんの。こたびの騒動は天下安泰の吉瑞でございましょう。あまりに世が平穏無事では、武士の心はゆるむばかり。むしろ1、2年は続いてもよろしいかと存じます」

あっけにとられる家光をよそに、宗茂の相貌には武将の気迫が甦っていたことでしょう。そして戦場に赴いた宗茂は、一揆勢の夜襲を見抜いてこれを逆襲するなど、采配の冴えはいささかも衰えていなかったといわれます。

島原の乱は無事に鎮圧されますが、戦後、総大将・松平伊豆守信綱の作戦指揮に対する非難が起こりました。すると宗茂は将軍家光にこう報告します。

「伊豆殿は若年ながら、勝ちを焦らず、無用の犠牲を避け、見事にその任を果たされました。拙者も感服した次第です。伊豆殿には何の落ち度もございませぬ」

この宗茂の言葉で、松平伊豆守への非難は立ち消えとなり、家光は一層、宗茂への信頼を深めたといいます。島原の乱で宗茂が采配を振るった際、諸大名家の武将たちは「武神再来」と戦慄したという話も伝わります。そんな宗茂は島原の乱出陣の4年後に世を去りました。享年76。

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