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信長の叔父・織田信光はなぜ、暗殺されたのか

2017年11月26日 公開

歴史街道編集部

清州城
 

織田信光が暗殺される

今日は何の日 弘治元年11月26日

弘治元年11月26日(1556年1月7日)、織田信光が暗殺されました。織田信長の叔父で、信長の後ろ盾として清洲城奪取に尽力したことで知られます。メジャーな武将ではありませんが、その足跡を追うと、当時の尾張の様子が伝わってきます。

信光は永正13年(1516)、清洲三奉行の一人・織田信定の3男に生まれました。6歳上の長男が、信秀(信長の父親)です。清洲三奉行の信定は尾張下四郡守護代・織田大和守達勝の家臣で、達勝は尾張守護・斯波氏に仕えて、清洲城を本拠としていました。信光は武勇に優れ、天文11年(1542)8月の今川家に勝利した小豆坂の戦いでは、兄・信秀に従って活躍。27歳の信光は「小豆坂七本槍」に数えられる働きぶりでした。 この頃には、兄の信秀はすでに主家の大和守や守護・斯波氏をも凌ぐ実力を蓄えていましたが、かたちの上ではあくまでも守護代・織田大和守の家臣です。

天文20年(1551)頃(諸説あり)、信秀が家督を嫡男の信長に譲って没する際、信光は信秀より、信長の後ろ盾となることを託されました。これにより当時守山城主の信光は、信長の最も有力な後ろ盾となります。天文21年(1552)、清洲城の守護代・織田大和守信友の老臣・坂井大膳が信長方の城を攻撃、その知らせに那古屋城より出陣した信長に信光も合流し、萱津口の戦いで清洲勢を破りました。この戦いを機に、信長と織田大和守信友の対立が深まります。また信光は、天文23年(1554)の今川方の村木砦攻略の際も、信長を助けて戦いました。

天文24年(1555)4月19日、信光は守護代の老臣・坂井大膳の招きに応じて清洲城に入り、大和守信友と並んで尾張守護代になったと『信長公記』は記します。清洲方による信長陣営の切り崩しだったのでしょう。しかし、この時にはすでに、信光と信長の間には密約が結ばれていました。清洲城に入った翌日の4月20日、信光は大和守信友を「主殺し」の名目で討ち果たし、清洲城を奪います。主殺しとは、前年に信友が、尾張守護・斯波義統を攻め殺したことを指していました。義統の息子・義銀は信長のもとに逃げ込んでいたのです。信光が清洲城を奪うと、坂井大膳は今川氏を頼って逃亡しました。計画通りに清洲城を奪った信光は、清洲城を信長に譲り、自分は信長の居城であった那古屋城に入ります。事前の取り決めでは、計画が成功した暁には、尾張半国を信光と信長が二郡ずつ分割することになっていました(『信長公記』)。

ところがその半年後の弘治元年11月、信光は近臣の坂井孫八郎に暗殺されました。享年41。小瀬甫庵の『信長記』には坂井が信光の北の方と密通していたことが原因とありますが、タイミングがタイミングであるだけに、さまざまな憶測を呼んでいます。 すなわち信光は信長にとって強力な後ろ盾ではあるが、尾張半国を均等に分割するとなると、その後の信長の行動も制約される可能性が高く、信長にとって信光の存在が邪魔になり始めていたのではないか。あるいは信長の勢力を削ぎたい信長の弟・信勝(信行)の手の者によって、暗殺されたのではないか、というものです。

もちろんそれらを裏付ける史料はありません。ただ信長が尾張を統一する過程においても、一族のさまざまな思惑が絡み合い、これに今川や斎藤らとの駆け引きも加わって、熾烈な闘いが続いていたことが窺えるのではないでしょうか。

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