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細川忠興~父・幽斎譲りの文武両道も、一筋縄ではいかぬ人物だった!?

2017年12月02日 公開
2023年10月03日 更新

12月2日 This Day in History

細川忠興とガラシヤ

細川忠興・玉夫妻の像(京都府長岡京市、勝竜寺城公園)
 

細川忠興が没

今日は何の日 正保2年12月2日

正保2年12月2日(1646年1月18日)、細川忠興が没しました。信長、秀吉、家康に仕えた肥後細川家初代、細川ガラシャの夫、千利休の高弟(七哲の一人)としても知られます。

忠興は永禄6年(1563)、将軍足利義輝に仕える幕臣・細川藤孝の長男として京都に生まれました。幼名、熊千代。通称、与一郎。元亀2年(1571)、9歳の時に松尾社で行なわれた能楽に出演したといいます。

その後、父親の藤孝は、自ら擁立に協力した15代将軍義昭と織田信長が対立すると、信長に臣従しました。天正5年(1577)、15歳の時に紀州雑賀攻めで初陣。翌天正6年(1578)に元服し、織田信長の息子・信忠の一字を与えられて忠興となります。同年、明智光秀の娘・玉(後のガラシャ)と結婚しました(『細川家記』)。当代一の美男美女と呼ばれたといいます。

天正8年(1580)、父・藤孝は信長より丹後の支配を任され、宮津城に入城、忠興も同行したと思われます。翌9年(1581)には京都での馬揃えに、父・藤孝に代わって参加しました。この馬揃えで信長が着用した蜀江の錦の小袖は、忠興が京都で探し求めて、進上したものといわれます。

天正10年(1582)3月、武田攻めのため信濃出陣を命じられた忠興は、信長に従って安土を出立しますが、ほとんど戦闘には参加していません。帰陣すると父親とともに京に吉田兼和を訪れ、蹴鞠に興じています。

同年6月3日、中国攻めの援軍として備中に向かおうとしたところ、本能寺の急報が届き、忠興はすぐに兵を返しました。そして藤孝・忠興父子は信長への哀悼の意を表して剃髪、藤孝は家督を忠興に譲って、「幽斎玄旨」と称します。忠興にとって明智光秀は、妻・玉の父であり、藤孝とともに軍事的にも従属する立場でした。当然、光秀からは何度も協力を要請されますが、父子は拒み、忠興は玉を三戸野に幽居させて、光秀との縁を切ります。しかし、玉を離縁することはありませんでした。

山崎の合戦には参加しなかったものの、丹波の光秀方の城を攻め落とし、羽柴秀吉より所領安堵だけでなく、丹後の光秀領も与えられます。さらに旧丹波守護家の一色満信(義有)を饗応に招いて謀殺、一色氏を滅ぼして、丹後全域を領有しました。一色満信には妹・伊也が嫁いでいましたが、一色氏のもとから妹を奪還した際、対面の席で妹に懐剣で襲われ、鼻を真一文字に斬られたといいます。

天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは、秀吉に味方して海上から越前を攻撃。翌12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、織田信雄の軍を退ける働きをしました。その後も九州征伐、小田原征伐に従軍して武功を挙げ、従四位下侍従に叙任、「丹後侍従」と呼ばれます。

文禄元年(1592)には朝鮮に出陣。岩山城、仁道県の城を攻略して、領主の子・李宗閑を生け捕りました。閏9月に帰国すると、伏見城工事を分担し、この頃に「越中守」に任じられます。慶長の役には参戦していません。

その一方で父親と同様に和歌、能楽、絵画に長けた文化人であり、千利休から最も愛された弟子であったといわれます。利休七哲の一人。利休が秀吉に切腹を命じられた際、諸大名の中で見舞いに赴いたのは、古田織部と忠興だけでした。

慶長3年(1598)に秀吉が没すると、石田三成と対立して徳川家康に接近。慶長5年(1600)、家康の上杉攻めに従軍しますが、その間に西軍の人質となることを拒んだ妻の玉が、大坂玉造の屋敷で自害を遂げます。関ケ原の戦いでは東軍の一翼を担って奮戦、その功績で豊前一国、豊後のうち国東郡を与えられ、39万9000石。中津城、後に小倉城を居城としました。

慶長19年(1614)の大坂冬の陣には徳川方として兵船を率いて出陣、翌年の夏の陣では、平野で敵と戦います。元和6年(1620)、3男忠利に家督を譲って隠居。出家して三斎宗立(そうりゅう)と号しました。寛永9年(1632)、忠利が肥後54万石に移封されると、忠興も八代城に移ります。そして正保2年12月、八代にて没しました。享年83。

忠興の生涯は父親と比べても武功の実績が多く、戦上手で知られた武人でした。同時に先述のような当代一流の文化人の側面もあり、文武ともに傑出した武将といえるでしょう。 ただ、私生活においては玉を愛するあまり、異常なほど嫉妬深く、玉の顔を見た植木職人を斬殺した話も伝わります。また妹婿の一色氏を謀殺し、一族を皆殺しにしたように、冷酷な面も持っていました。冷酷といえば、本能寺の際の明智光秀に対する態度もどこかそれに通じるかもしれません。幽斎もそうですが、忠興も一筋縄でいかぬ人物のようです。

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