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大野九郎兵衛~「忠臣蔵」の悪役はほんとうに不忠者だったのか?

2017年12月14日 公開
2023年03月09日 更新

『歴史街道』編集部

大野九郎兵衛の供養塔

福島県と山形県の県境、米沢市・板谷峠近くにある大野野九郎兵衛の墓(供養塔)
 

赤穂藩元家老・大野九郎兵衛にまつわる伝承

赤穂浪士が本所吉良邸に討ち入り、吉良上野介義央を討って、本懐を遂げた元禄赤穂事件。時々、話題になるのが、四十七士以外の赤穂浪士のことです。元赤穂藩士でありながら討ち入りしなかった(できなかった)人たちは、「不忠臣」扱いされ。元浅野家家臣と名乗ることがはばかられたといわれます。今回は、そんな「不忠臣」の代表格とされる、元浅野家家老の大野九郎兵衛知房について、少しご紹介しましょう。

大野九郎兵衛知房は優秀な経済官僚で、藩財政を運営し、塩田開発によって赤穂の塩の製造販売を成功させたことでも知られます。ところが浅野内匠頭が自刃し、今後の方針をめぐって赤穂城内で大評定が行なわれた際には、大野は恭順開城論を唱えて、籠城を主張する大石内蔵助派の家臣らと対立しました。また城明け渡しの際の公金分配においては、大石が微禄の者にこそ手厚く配分すべきだとしたのに対し、大野は石高に応じて配分すべきとし、結局、大石の意見が通ると、大野は病気を口実にして藩から退散してしまったといいます。このため、大野は赤穂浪士の物語における嫌われ者となりました。「仮名手本忠臣蔵」においては、大野は斧九太夫という悪役となり、スパイもどきの役回りにされています。

その後、一説に大野は不遇のまま、人の施しを受けながら京都・仁和寺の門前に暮らし、困窮の中で生涯を終えたともいわれました。ところが、全く別の説も存在します。実は大野が大石と仲違いをして赤穂から退散したのは、大石と示し合わせた上のことであり、もし大石率いる浪士たちが討ち入りに失敗して吉良をとり逃がした時には、大野が第二の討手となる計画だったというのです。山形県の五色温泉に近い板谷峠には、16基の石碑が建ちます。これには大野九郎兵衛主従の霊を悼むためのものという言い伝えがありました。

板谷峠を越えると、米沢に出ます。米沢の上杉家の当主・綱憲は、吉良上野介の実の息子でした。もし大石らが討ち入りに失敗したならば、吉良は息子を頼って米沢に落ちることが予想され、その際にはこの峠を越える可能性が極めて高いのです。そこで大野らは板谷峠付近に身を潜めて、密かに監視を続けていました。ところが、そこへ討ち入り成功の知らせが入り、大野らの第二の討手は不要となったのです。

世間的には「不忠臣」となり、日の目を見ることはなかった彼らですが、大野らは本懐成就を喜び、全員潔く自刃を遂げました。これに類する伝承は板谷峠だけでなく、福島県の庭坂峠や、群馬県の磯部温泉の周辺にも伝わっています。

また大野九郎兵衛の墓といわれるものは、各地に残っています。赤穂事件への関心の高さ、忠臣蔵人気も影響しているのでしょうが、大野が本当に単なる嫌われ者であったならば、なかなかこうはいかないでしょう。もちろん大野が第二の討手であったことが事実である可能性は低いかもしれませんが、四十七士以外の光の当たらない元赤穂藩士にも目を向け、こうした話が伝わるところに、日本人らしさのようなものを感じます。

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