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平賀源内~「日本のダ・ヴィンチ」と呼ばれた異能の天才

2017年12月18日 公開
2018年12月03日 更新

12月18日 This Day in History

平賀源内
 

江戸の天才・平賀源内が没

今日は何の日 安永8年12月18日

安永8年12月18日(1780年1月24日)、平賀源内が没しました。本草学者、蘭学者、戯作者、画家、陶芸家、発明家…。多方面で才能を発揮した天才で、「日本のダ・ヴィンチ」とも称されますが、「国益」を重んじる人でもありました。

源内は享保13年(1728)、高松藩の足軽・白石茂左衛門良房の3男として、讃岐国志度浦に生まれました。諱は国倫(くにとも)。 白石家の祖先は戦国時代、信濃佐久で武田氏に滅ぼされた平賀玄信に遡り、その後、奥州白石で伊達氏に仕えて白石姓に改め、伊達氏が宇和島を領した際にともに移って、讃岐で帰農したと伝わります。

源内は12歳の頃、掛け軸に細工をして「御神酒天神」を作ります。御神酒を供えると、掛け軸に描かれた天狗の顔が赤くなる仕掛けは村人を驚かせ、源内は「天狗小僧」と呼ばれました。その評判から13歳になると、藩医のもとで本草学(薬草などの植物や自然物を対象とした学問)、儒者から儒学を学びます。寛延2年(1749)、22歳の時に父の死により家督を継いで、御蔵番として出仕。また姓を平賀に改めました。家督を継いでから3年後の宝暦2年(1752)、藩の許しを得た源内は、長崎に遊学。ここで本草学をはじめ、オランダ語、医学、油絵など西洋の知識に接したことが、彼の生涯を変えます。

遊学から戻った源内は宝暦4年(1754)、藩の役目を辞し、家督を妹婿に譲りました。脱藩した源内は、京・大坂を経て宝暦6年(1756)に江戸に出ると、本草学者の田村藍水に入門、また翌年には漢学を学ぶため、林家に入門して湯島聖堂に寄宿しました。同年、師の田村を説いて、湯島で第一回薬品会を湯島で開催します。薬品会とは物産博覧会のことで、源内が企画したそれは日本初のものでした。動植物など生き物も出品する関係で会期は短かったようですが、大いに人気を博し、その後も度々開催されます。源内にはこうしたプロモーターの才能もありました。 また田村の門下にいた小浜藩医・中川淳庵の仲介で、その同僚の医者で蘭学者の杉田玄白と知り合います。源内と玄白は生涯を通じての親友となりました。

宝暦12年(1762)には第五回東都薬品会を主催し、1300種もの動植物、鉱物を陳列。翌年には陳列した1300種のうちから350種を選び、挿絵と解説をつけた『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』を刊行しました。これは日本の博物学史上、画期的な業績といわれます。

こうした源内の活動に注目する幕府の要人がいました。後の老中・田沼意次です。田沼が政権を担った田沼時代は賄賂や汚職がはびこった時代ともいわれますが、実は彼が取り組んでいたのは幕府財政の再建でした。田沼は再建の一つの方策として、蘭学を活用した輸入品の国産化や鉱山開発を進めます。そして蘭学を支援し、源内が田沼の意向を受けて動く部分もありました。たとえば源内は鉱山開発にも積極的に取り組み、明和元年(1764)には秩父の中津川山中で石綿を発見。これから火浣布(耐火織物)を製造して幕府に献上しているのも、その一環でしょう。

同じ頃、源内は『根南志具佐』『風流志道軒伝』などの世相を風刺した談義本を刊行、風流戯作本の先駆けといわれます。また明和年間には、杉田玄白らと毎年、江戸参府中のオランダ商館長や通詞を阿蘭陀宿・長崎屋に訪ねて、オランダ語訳の西洋の博物書を積極的に入手し、知識の拡充を図りました。

明和7年(1770)、43歳の時に自作の浄瑠璃「神霊矢口渡」が初演。同年、老中格・田沼意次の命を受けて、阿蘭陀翻訳御用として再度、長崎に遊学します。その最中、長崎で高価な陶磁器が輸入されているのを見て、「陶器工夫書」を天草代官に提出。天草の土を使い、工夫すれば、外国に輸出できる陶器を作ることが可能で国益にかなうと進言しました。また長崎では自ら西洋画を描き、その技法を身につけたともいわれます。その作品の一つが「西洋婦人図」です。さらに舶載緬羊による羅紗の試し織りを持ち帰り、羊の飼育から始めて、後に国産の羅紗織に成功しました。長崎の帰途立ち寄った故郷・志渡では、陶工に「源内焼」の作風を伝えたともいわれます。

安永2年(1773)、出羽秋田藩に招かれて鉱山開発の指導を行ない、また藩主・佐竹曙山と藩士・小野田直武に洋画を伝えました。源内は秋田での鉱山開発の成果を「2万両ばかりの国益」と記しています。 源内はエレキテル(静電気発生機)の修理復元や、土用丑の日のうなぎの推奨の伝説など、自由気ままな文化人・発明家のイメージがありますが、実像は必ずしもそうではありません。むしろ「国益」を念頭に置いての活動が中心でした。それは田沼意次の、蘭学の活用による輸入品の国産化、鉱山開発で、財政再建を目指す姿勢と符合するもので、源内と田沼は、身分は違っても国益を重んじる点で「精神的な同志」であったことが窺えます。

安永8年(1779)、酔った源内は勘違いから人を傷つけて入牢、小伝馬町の獄中で病死しました。享年52。杉田玄白らによって葬儀が行なわれますが、幕府の許可が下りなかったため遺体はなく、あるいは田沼の庇護の下、生き延びていたのではないかという説があるのも、異能の人・源内らしいかもしれません。

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