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大岡越前守忠相~徳川吉宗を支えた名奉行の実像とは?

2017年12月19日 公開
2022年03月15日 更新

12月19日 This Day in History

大岡越前

名奉行・大岡忠相が没

今日は何の日 宝暦元年12月19日

宝暦元年12月19日(1752年2月3日)、大岡忠相が没しました。名奉行・大岡越前として有名ですが、実像はどうであったのでしょうか。

忠相は延宝5年(1677)、旗本・大岡美濃守忠高の4男として、江戸屋敷に生まれました。通称、求馬、市十郎、忠右衛門。大岡氏は戦国の頃に三河松平氏に仕え、代々の諱である「忠」は、松平広忠(家康の父)より与えられたものといわれます。

貞享3年(1686)、10歳の忠相は同族の旗本・大岡忠右衛門忠真の養子となりました。しかし元禄6年(1693)には実兄の大岡忠品が5代将軍綱吉の怒りを買って遠島に処され、さらに元禄9年(1696)には従兄弟の大岡忠英が上役を斬って自刃。このため、忠相を含む大岡一門は連座して、閉門となってしまいます。幸い翌年には赦され、元禄13年(1700)に養父が病死すると、24歳の忠相は家督と遺領を継承。元禄15年(1702)に書院番になったのを皮切りに、宝永元年(1704)に徒頭、宝永4年(1707)に使番、翌年に目付と、順調に出世を続けました。

そして6代将軍家宣の時代である正徳2年(1712)、36歳の忠相は遠国奉行の一つである伊勢山田奉行に就任します。同年、従五位下能登守に叙任。 当時、伊勢山田奉行の管轄内では、幕府領と紀州藩領の境界争いがしばしば生じていました。忠相はこれを果断かつ公正に裁き、一方の当事者である紀州藩主・徳川吉宗もその手腕を大いに認めたという話が伝わります。しかし実際のところは、後世の創作であるようです。

享保元年(1716)、7代将軍家継の時代に普請奉行となり、さらに同年、吉宗が8代将軍になると、翌享保2年(1717)には江戸町奉行(南町奉行)に登用されました。時に忠相、41歳。 普通、還暦前後の旗本が任命される町奉行職としては、異例の若さです。この際、忠相は能登守から越前守に改めました。将軍吉宗は「享保の改革」と呼ばれる幕政改革に着手しますが、忠相もまたその中心人物の一人として、20年間にわたり職務に精励します。 当時の忠相の仕事内容を日本の行政機構にたとえるならば、町奉行の本分である警察・司法機関一切の他、法務・自治・厚生・財務(日本銀行も含む)・農水・建設といった諸省の管轄にまたがるもので、まさに八面六臂の活躍ぶりでした。

忠相が取り組んだ政策を具体的に挙げてみると、
1.町火消や火除地の設置など、江戸防火体制の確立
2.小石川養生所の設置による救貧対策と医療福祉の充実
3.米価の引き上げと諸物価の引き下げ、大坂堂島の米市場の開設など経済統制と物価対策
4.金銀相場への介入と貨幣改鋳などの通貨政策
5.地方御用掛として新田開発と地方巧者の登用をはじめとする関東農政の充実
などです。

意外なところでは、今も書籍の最終ページに入る奥付は、書籍の素性を明確にするために忠相が命じたものだとか。サツマイモの栽培で知られる青木昆陽を見出したのも忠相です。もちろん諸政策のすべてが成功したわけではありませんが、重要な国政課題に真摯に取り組んだ忠相の姿は、有能・勤勉な実務政治家というべきでしょう。

もっとも後世の人間が大岡越前といって連想するのは、お白洲での「大岡裁き」です。 大岡裁きには「三方一両損」「縛られ地蔵」「天一坊」「白子屋お熊」など有名なものが多く、それらは講談の『大岡政談』などで庶民に広まりましたが、残念ながらほとんどは後世の創作でした。ただしベースにあるのは真摯に改革に取り組んだ大岡忠相の姿であり、忠相ならばこんなお裁きをしてもおかしくないという、庶民の期待が込められていたようです。

元文元年(1736)、忠相は60歳で寺社奉行を拝命。寺社奉行は将軍直属であり、老中支配下の町奉行・勘定奉行より格は上でした。そのためこの人事は、将軍吉宗が忠相の長年の功に報いたものと噂されましたが、普通は若手のエリート大名が奏者番と兼務する役職であるだけに、大名格として遇せられるとはいえ、忠相は戸惑うことが多かったようです。寺社奉行は町奉行ほどの激務ではないにしても、忠相は幕府の最高意思決定機関である評定所一座に出席し、また町奉行時代から兼務していた地方御用掛も辞めていなかったため、月に1、2日しか在宅していないという忙しさで、相変わらず職務に精励していました。

寺社奉行を務めて10年目の延享2年(1745)、将軍吉宗は在職30年にして、将軍職を息子の家重に譲ります。吉宗には幕政を忠相と二人三脚してきたという感懐があったのでしょう。退隠前にわざわざ忠相を呼び出し、家重のことを頼んでいます。

寛延元年(1748)、忠相は寺社奉行のまま奏者番を兼務することになり、禄高は1万石となって、名実ともに大名となりました。忠相、72歳の時のことです。それから3年後の寛延4年(1751)、大御所吉宗が享年68で没。忠相は葬儀奉行を黙々と務めますが、この時、忠相の生き甲斐も失われたのかもしれません。半年後の宝暦元年12月19日、忠相は世を去りました。享年76。あたかも吉宗に殉じるような最期でした。

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