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大内義弘~応永の乱で足利義満に挑んだ西国の雄

2017年12月21日 公開
2023年03月09日 更新

『歴史街道』編集部

瑠璃光寺

瑠璃光寺(山口県山口市)
大内氏全盛期の大内文化を伝える寺院で「西の京・山口」を代表する観光名所。大内義弘の墓所もある。
 

応永の乱で大内義弘が没

今日は何の日 応永6年12月21日

応永6年12月21日(1400年1月17日)、大内義弘が没しました。南北朝時代から室町時代にかけての武将で守護大名。地方の一守護・大内氏の名を全国に轟かせ、応永の乱で足利義満に挑んだことで知られます。

大内義弘は延文元年/正平11年(1356)、大内弘世の嫡男に生まれました。父親の弘世は北朝方に与し、幕府より周防・長門・石見の守護に任ぜられています。義弘の人生は、室町幕府の動きと密接に関わることになりますが、そこには2人の人物との出会いがありました。

まず一人が今川貞世(了俊)です。建徳2年/応安4年(1371)、九州探題に任ぜられた今川貞世は西国平定のため九州に赴く途中、山口の大内氏のもとに立ち寄り、援助を求めました。大内弘世はこれを承知し、16歳の義弘に軍勢を与えて、今川貞世とともに九州に向かわせます。当時の九州は大宰府を拠点とする懐良親王と菊地武光ら、南朝方勢力が押さえていました。これに対し、大内義弘の援軍を得た今川貞世は大宰府攻略に成功、見届けた義弘は山口に戻ります。その後、貞世から再び援軍要請があり、再度出陣して九州の南朝方勢力を鎮圧しました。この功績で義弘は、豊前守護に任じられます。 天授6年/康暦2年(1380)、父・弘世が没すると、25歳の義弘は父親の周防・長門・石見守護も継承しました。

その9年後、義弘は人生を左右するもう一人の人物と出会います。室町幕府3代将軍の足利義満でした。義弘が家督を相続した頃、義満は将軍の権力を増強すべく、有力守護大名の弱体化を図っていました。 たとえば天授5年/康暦元年(1379)には、細川氏と斯波氏の対立を利用して管領細川頼之を失脚させ(康暦の政変)、また元中6年/康応元年(1389)には、土岐康行を挑発して挙兵させ、これを鎮圧し降伏させています(土岐康行の乱)。そんな義満が同年、厳島神社参詣のために瀬戸内を西に下ってきました。これに対して義弘は、周防三田尻(現在の防府市)で義満を歓待し信頼を得て、義満に従って上洛することになります。これが義弘の運命を大きく変えることになりました。

元中8年/明徳2年(1391)、義満は11カ国の守護を兼ねて「六分の一殿」と呼ばれた山名氏の弱体化を狙い、一族の分裂を図って挙兵させ、これを討伐して3カ国の守護へと縮小させることに成功(明徳の乱)。この乱には義弘も出陣し、山名氏討伐に加わりました。また翌年、義弘は南朝との仲介役を務めて、南北朝合一にも尽力します。これらの功績により、義弘は和泉・紀伊の守護を兼ねることになりました。さらに瀬戸内海の交易権では細川氏と対立しつつも、九州探題を解任された今川貞世に代わって、朝鮮や明とも独自の貿易ルートを確保し、畿内から中国、九州へと勢力を大きく拡大します。

義弘の幕府と将軍への忠誠心は強く、応永2年(1395)に義満が出家すると、40歳の義弘もそれに従いました。しかし2年後の応永4年(1397)、義満が北山第の造営に諸大名家へ人数の供出を求めると、義弘のみは「武士は弓矢をもって奉公するもの」として従わず、義満の不興を買います。義満が義弘の勢力を危険視し始めるのは、この頃からでしょう。同年末、義満より九州の少弐貞頼討伐の命令を受けた義弘は、2人の弟・満弘と盛見を向かわせますが、苦戦の末に満弘が討死。しかし幕府からは満弘の遺児への手当ては一切なく、一方、少弐を背後から支援して大内討伐を行なったのは義満であるという噂が流れて、義弘は不信感を募らせます。

さらに応永6年(1399)、「義弘が貿易で莫大な私利を得ている」との近臣の讒言もあり、義満は義弘に圧力をかけ、上洛命令を発して挑発。「和泉、紀伊守護の剥奪」「上洛すれば誅殺される」という噂も流れる中、義弘は義満との対決を決断するに至りました。義弘は九州探題を一方的に解任されて失脚していた今川貞世を仲介役として、鎌倉公方・足利満兼と密約を結ぶと、義満によって没落させられた土岐氏、山名氏、京極氏、さらに旧南朝方に挙兵を呼びかけます。そして同年10月、義弘は弟・弘茂とともに一説に5000の軍勢を率いて和泉国堺ノ浦に上陸。堺に城砦を築きました。応永の乱の始まりです。

義弘はすでに死を覚悟しており、自らの葬式と49日法要を済ませていました。また国許の老母にも形見を送り、留守を預かる弟・盛見には、守りを固めることを指示しています。義満自ら東寺に出陣し、3万を超す幕府軍主力は11月29日、義弘の拠る城砦に総攻撃をかけました。しかし、城砦は落ちず。時を同じくして、義弘と連携した鎌倉公方、土岐氏、山名氏(宮田時清)、京極氏もそれぞれ動き、幕府軍の背後を脅かします。 意気揚がる大内勢でしたが、12月21日、幕府軍は火攻めによる総攻撃を行ない、義弘もこれが最後の戦いになると覚悟。自ら大太刀を振るって畠山満家の陣に斬り込み、奮戦の末、「天下無双の大内入道である。討ち取って将軍の御目にかけよ」と大音声を発して討死しました。享年45。

大内家は弟の盛見が継承しますが、幕府の言いなりにはならず、実力を示して周防・長門・豊前・筑前の守護に任じられることになります。

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