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福地源一郎~福澤諭吉と「天下の双福」と呼ばれた元幕臣、異能のジャーナリスト

2018年01月04日 公開

歴史街道編集部

福地源一郎
 

福地源一郎が没

今日は何の日 明治39年(1906)1月4日

明治39年(1906)1月4日、福地源一郎が没しました。元幕臣で、福地桜痴の名でも知られる、異能のジャーナリストです。

明治18年(1885)、「今日新聞」(現在の「東京新聞」)が、各界の代表的な日本人の投票を行ない、その結果、10の分野を代表する「日本十傑」が選ばれました。

1位 福澤諭吉(著述家) 1,124票
2位 福地源一郎(新聞記者) 1,089票
3位 伊藤博文(政治家) 927票
4位 鳩山和夫(法律家) 618票
5位 渋沢栄一(商法家) 596票
6位 中村正直(学術家) 592票
7位 佐藤進(医師) 565票
8位 北畠道竜(教法家) 486票
9位 守住貴魚(画家) 459票
10位 榎本武揚(軍師) 425票

「軍師って何?」 と突っ込みどころもありますが、伊藤博文を押さえ、福澤諭吉に次ぐ堂々の2位に入っているのが、福地源一郎です。福澤諭吉と並んで「天下の双福」とも称されました。

源一郎は天保12年(1841)、医師・福地苟庵(こうあん)の長男として、長崎に生まれます。幼名八十吉。幼い頃から優秀で神童と呼ばれ、15歳の時にオランダ通詞・名村八右衛門に蘭学を学びました。源一郎は名村から、出島のオランダ商館長の情報源が「新聞」というものであることを教わります。 安政5年(1858)、18歳で江戸に出た源一郎は、父親の知り合いである森山栄之助から英語やイギリスの学問を学びました。森山はペリー来航の際に通訳を務めており、当時、中浜万次郎(ジョン万次郎)と並ぶ英語のエキスパートです。

万延元年(1860)、森山の後押しで幕府御家人に取り立てられた源一郎は、翌文久元年(1861)、21歳で遣欧使節の一員に選ばれます。同じ船に福澤諭吉の姿もありました。ロンドンで源一郎は新聞社を訪ね、記者が政府や議会に意見を述べる姿に強い関心を抱きます。また観劇をきっかけに、シェイクスピアの戯曲も学び始めました。源一郎は慶応元年(1865)にも再度、ヨーロッパを訪れる機会に恵まれますが、この時はフランス語を学んでいます。

慶応2年(1866)3月に帰国すると、26歳の源一郎は旗本に取り立てられますが、持ち前の開国論が周囲から受け入れられず、鬱々として過ごします。そして大政奉還、幕府の瓦解を目の当たりにしますが、慶応4年(1868)閏4月に「江湖新聞」を創刊。「明治の御一新などというが、幕府から薩長に政権が移ったに過ぎない。薩長幕府が生まれただけではないか」と痛烈に批判し、新政府の怒りを買いました。その結果、新聞は発禁処分となり、源一郎は逮捕されますが、木戸孝允の取り成しで、源一郎は事なきを得ます。これが明治時代最初の言論弾圧ともいわれます。

源一郎は士籍を奉還して平民となり、英語とフランス語の私塾「日新舎」を開きました。塾は福澤の慶応義塾、中村敬宇の同人社と並んで「東京の三大学塾」とまで称せられ、門人には中江兆民もいました。しかし源一郎の気持ちは晴れず、吉原通いを始めることになります。

明治3年(1870)、吉原で知り合った渋沢栄一の推薦で大蔵省に入ると、一等書記官として岩倉使節団の一員となり、アメリカとヨーロッパを歴訪しました。明治7年(1874)に帰国すると、恩人の渋沢は大蔵省を去っており、源一郎も周囲の反対を押し切って官を辞し、「東京日日新聞」を発行する日報社に入社。「俺が新聞記者になったからには、それだけのことはしてみせる」と啖呵を切ったといいます。翌明治8年(1875)、源一郎は紙面に「ソサエチー」というふり仮名を振った「社会」欄を掲載。現在でいう社説で、自ら伊藤博文や大隈重信に取材して執筆する記事が話題となり、「東京日日新聞」は部数を大きく伸ばしました。ちなみに社会という言葉は、この時に生まれたものだそうです。

源一郎は明治9年(1876)に「日日新聞」の社長に就任します。 また明治10年(1877)に西南戦争が勃発すると、自ら戦地に出向いて田原坂の戦いなどに従軍記者として参陣、ジャーナリストとして大いに名を高めました。その活躍ぶりから、明治天皇に直接戦況を報告する栄誉にも浴します。「東京日日新聞」の社長を続けつつ、源一郎は渋沢栄一らとともに東京商法会議所を設立。また東京府会議員の府会議長も務めました。

しかし明治21年(1888)、経営不振から日報社を退社。その後は演劇改良運動と劇場の開設に尽力します。特に9代目市川団十郎と意気投合し、歌舞伎座の座付作者として多くの脚本を手がける多才ぶりを示しました。

明治39年没。享年64。

晩年、妾が重い病に罹り、源一郎はその看病をしています。彼女が懐中時計の蓋を開け閉めする音を好んだため、源一郎は時間の許す限り、彼女の耳もとで開け閉めを続けました。彼女が瞑目した時、その枕元には蓋の壊れた懐中時計が20個以上も並んでいたといいます。

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